太楽令

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太楽令(たいがくれい)は、紀元前3世紀の前漢から14世紀のまでの中国に置かれた官職である。音楽を掌った。

概要

祭祀・儀式で音楽を演奏するのが職務の中心だが、時代により、音楽に関する仕事を一手に引き受けたときと、他の官職と仕事を分担したときがある。他の主な音楽関連の官職には、楽府令(前漢)、協律都尉(前漢・三国の魏)、協律校尉(西晋・南北朝時代)、鼓吹令(西晋から宋)、清商令(南北朝時代から唐)、協律郎(南北朝時代から清)があった。

古い時代の中国では官庁の名を正式に定めず、太楽令を長とする官庁は太楽と呼ばれた。南北朝時代に官職と官庁を呼び分ける制度ができると、太楽署の長官が太楽令となった。次官は太楽丞である。それより下の部下は、時代により名前が異なり、また時代によってはまったく不明なこともあるが、身分が低い者も含めると数百から千人以上に達した。太楽令は、後漢で大予楽令、遼で太楽署令と、少し違う名になったこともある。

太楽令の上司は太常であった。官庁の名が定まったときからは、多くの王朝で、太常卿を長官とする太常寺という官庁の下に、太楽令を長官とする太楽署という官庁を置く形にした。

明では音楽が太常寺の直轄になり、太楽令はなかった。清では楽部の下に神楽署神楽令を置いた。この神楽令を後身とみなしうるが、太楽令の名は元が最後となった。

変遷

前漢は多くの制度をから継承しており、太楽令も秦にあった可能性がある。

前漢

太楽令は初め奉常に属し、景帝中6年(紀元前144年)から、奉常の改称によって生まれた太常に属した[1]。副官として(太楽丞)が一人ついた[1]

前漢で音楽をつかさどる官職にはもう一つ、少府に属する楽府令があった。奉常は祭祀・儀式に、少府は皇帝の用に仕えたので、太楽と楽府の分担も同じであろう。楽府は武帝によって充実をみたが、宣帝以後の皇帝が楽府をたびたび減員し[2]哀帝のとき廃止になった[3]

後漢

後漢にも太楽令があったが、永平3年(西暦紀元60年)に明帝が、予言書にもとづいて大予楽令と改称した[4][5]

秩石は600石。丞が一人ついた[6]。ほかに25人の員吏がおり、その内訳は、2人が百石、2名が斗食、7名が佐、10人が学事、4名が守楽事であった[7]

『続漢書』百官志が記す職務は、国家的祭祀で音楽を演奏し、宮廷の饗宴で楽器を陳列することである[6]。後漢には楽府がないので、祭祀と宮廷で役所を分けることはなかった。

三国時代の魏

三国時代は、名を太楽令に戻した[8]。太楽令、太楽丞があった[9]。音楽の官として別に協律都尉があったが、知られる一例では太楽令と兼任していた[9]

西晋・東晋

晋(西晋)にも太楽令があり、太常に属した[10]。音楽の官として別に鼓吹令協律校尉があった[10]

311年に都の洛陽が陥落し、西晋が滅亡すると、用いられなくなった伶官(音楽の官人)と楽器は失われた[11]。再興した東晋には伶人も楽器もなく、太楽令は省かれた[11]。その後、逃げてきた伶人を受け入れたり、捕虜として連れ帰ったりすることで、少しずつ充実し、咸和中(326年 - 334年)に、成帝がふたたび太楽の官を置いた[11]

南朝

東晋を受けたにも太楽令があり、太楽丞が一人ついた[8]。音楽に関すること全般を掌った[8]。宋末の元徽(473年 - 477年)のころ、千人以上が属し、国力不相応だと後代に批判された[12]

にも太楽令と太楽丞が一人ずついた[13]。斉の武帝は奢侈で、太楽の人数が多かったという[14]

では、官庁の名と役職の名を明確に分けるようになり、役所が太楽署、その長官が太楽令、次官が太楽丞と定められた[15]。太楽署は、太常卿に属した[15]。音楽関連では他に鼓吹署に鼓吹令があり、清商署に次官として清商丞をおき、太楽令を長官にした[15]。清商署が扱った清商楽は、比較的新しく生まれた音楽で、太楽は伝統的な音楽を演奏した。

にも太楽令があった[16]

北朝

北魏では、太和15年(491年)12月、北魏の孝文帝の官制改革の一貫として、太楽が設置されたという[17]。しかしそれ以前から太楽の役人はいたようである[18]、太和の頃の官職一覧には、太楽祭酒(第六品中)、太楽博士(第六品下)、太楽典録(従第八品下)が見える[19]。かっこ内は官品。この一覧には太楽令、太楽丞が欠けている。

北斉では太常の下に太楽署があり、太楽令が長官、太楽丞が次官であった[20]。音楽関連では鼓吹署に鼓吹令がいて、太楽と並んだ[20]。また清商部があり、太楽令が長官を兼ね、清商丞が次官となった[20]

では太楽署、清商署、鼓吹署があり、それぞれに長官の令と次官の丞がいた[21]。太楽令と太楽丞は2人のこともあった[21]。また、楽師が8人所属した[21]。清商の楽師は2人、鼓吹の哄師も2人なので、太楽のほうが多い[21]。太楽令の官品は正八品と定められていた[21]

煬帝のとき、前諸王朝の楽工の子弟と声調がよい人、あわせて300余人を太楽に付けた[22]

唐では、太常卿を長官とする太常寺の下に太楽署と鼓吹署があり、清商署はない[23]。太楽署の長である太楽令は従七品下、次官の太楽丞は従八品下[23]。他に府3人、史6人、楽正8人、典事8人、掌固8人、文舞郎と武舞郎が140人[23][24]。太楽令の職務は鐘律を調合し、国家の祭祀、饗宴に供することである[23][24]。『旧唐書』は太楽令の定員を1人、『新唐書』は2人とする[24]。また、『新唐書』は定員に散楽382人、仗内散楽1000人、音声人10027人を付け加える。

の太楽令は、初め、唐と同様、太常寺に属したが、崇寧2年(1103年)または4年(1105年)に大晟府が音楽のために設けられ、そこに属することになった。崇寧2年改正の記述は『宋史』の職官志に、4年改正は『宋史』の本紀と楽志にあり[25][26]、年だけでなく内容も若干異なっている。崇寧2年改正の官制では、太楽令はなく、かわりに大晟楽令が設けられたことになっている[27]。崇寧4年改正の記述箇所では太楽令のままである[26]宣和2年(1120年[28]または宣和7年(1125年)12月[29]に大晟府は廃止された。

には役所として太楽署があり、太常寺に属した[30]。長官は太楽署令といい、次官を大楽署丞といった[30]。他の音楽関係の官には、太楽署と並ぶ鼓吹署(長官は鼓吹令)と、太常寺直属の協律郎があった[30]

にも役所として太楽署があり、太常寺に属した[31]。太楽令が大楽署の長官で官品は従六品[31]。副として太楽丞(従七品)がつき、楽工部籍直長(正八品)、大楽正(正九品)、大楽副正(従九品)、楽工100人がいた[31]。太楽令は鼓吹署の令(鼓吹令)を兼任した[31]

では、役所として太楽署があり、太常寺あるいは太常礼儀院に属した[32]。太楽署は世祖クビライ中統5年(1264年)に初めて設けたもので、定員2名の太楽令が長官となり、その官品は従七品。丞(従七品)1人がつき、礼生・楽工あわせて479戸を管掌した[32]

明と清

明と清に太楽署・太楽令はなかった。

で音楽は太常寺の直接の管轄で、官職としては協律郎司楽があった[33]。明は北京と南京の二都を持ち、官庁・官吏も両方がもっていたので、協律郎と司楽も南北にいた[33]

には楽部という音楽の役所があって、通常他の高官の兼任となる典楽大臣が長となった[34]。楽部には神楽署があって、神楽令、神楽丞がいた[34]。別に、定員5人の協律郎、25人の司楽25人、180人の楽生がいた[34]

太楽令の人物

前漢

三国の魏

南朝の宋

南朝の斉

南朝の梁

南朝の陳

北魏

脚注

参考文献

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