大入りダイヤルまだ宵の口
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放送時間の変遷
- ニッポン放送では、平日の22時以降にわたる夜のワイド番組として最初の番組となった。
- この番組以前にニッポン放送では青島幸男をパーソナリティに、番組名も『青島幸男のまだ宵の口』(放送期間は1963年12月16日 - 1967年2月11日)という番組があったが、当番組とはまったく内容が異なる(ちなみに、テーマ曲はクインシー・ジョーンズの「ソウル・ボサノバ」)。
- 初代パーソナリティーは、月-金曜とも高島ヒゲ武(本名は高嶋秀武、当時ニッポン放送アナウンサー)。1976年4月から、金曜はくり万太郎(本名は高橋良一、当時ニッポン放送アナウンサー)の担当となった。
- 「高島ヒゲ武」のマイクネームの使用は1976年からであり、それまでは「高島秀武」の名前で出演していた。このマイクネームのネーミングの経緯について、番組担当ディレクターであった上野修(ドン上野)によれば、高島がヤングタイムのワイド番組である『大入りダイヤルまだ宵の口』のパーソナリティに決まり(直前の1975年3月までは平日12時15分 - 12時55分の昼番組『お笑い昼休み』を担当)、当時「ごくありふれた、特徴のないマジメ型アナウンサーの一人」だった高島のイメージチェンジ作戦の一環として、口髭を生やすようになったということであり[1]、その過程で上野自身が「高島ヒゲ武」のマイクネームを考案したようである[2]。
- 当時番組内では、リスナーの「スタート」コールでテープを高速回転させ、「ストップ」コールで止まったところを再生する文言ですべてを決めるルーレットを多用しており、マイクネームの決定にもこのルーレット方式を採用。高島本人がまず試しにコールしたところ、「エロ武」が出てしまい、「本番でなくてよかった」と胸を撫で下ろしていた。次にリスナーにコールさせたところ、多数の公募作の中から出た文言が「ヒゲ武」であった。
- 1973年にスタートした文化放送の『みのもんたのワイドNo1』がトップを走っていた中でスタートさせるにあたり、番組のプロデューサーだった上野修が、前述通り当時はまだ取り立てて個性的というほどではなくごくごく一般的であった高嶋のイメージチェンジを図るべく、高嶋に「みのの番組に勝つために君には変わってもらう。『人は体全体から喋りが出てくる』。まずヒゲをはやし、オレが良しを出すまでは髪を切らず、ジーパンをはけ。ネクタイは一切禁止で、スニーカーをはけ。」と指令を出したという。このイメージチェンジによって高嶋は社内で注目される様になり、注目されることによってパーソナリティーとしての個性が開花していったといわれる。なお、この翌年に『ワイドNo1』は終了した。
- その後、1979年4月より、月-木曜は、波多江孝文(途中からマイクネームをはた金次郎とする。当時ニッポン放送アナウンサー)、金曜はくり万太郎が担当。さらに1980年4月からは、月 - 木曜はくり万太郎、金曜は塚越孝(当時ニッポン放送アナウンサー、後に当時フジテレビアナウンサー)となり、金曜については1980年10月より番組タイトルが『はなきんダイヤルまだ宵の口』に変更された。
- 聴取率の面で在京他局に差を付け、関東地方の夜のラジオをリードする存在の番組であったが、1980年10月から同じ時間帯で文化放送が『吉田照美のてるてるワイド』をスタートさせると、『宵の口』の聴取率は『てるてるワイド』を下回ることが多くなり、番組を終了することになった。その遠因として、ブロックワイドのデメリットである「箱番組の乱立でパーソナリティの個性を潰してしまい、番組そのものの寿命をも縮めた」ことにある。最末期には約3時間の番組枠に15本のコーナー番組を詰めてしまったことが仇となった。反面、『てるてるワイド』は箱番組を減らしたことと、多少吉田照美のトークで伸縮があっても対応できるようにしたため、結果として吉田のキャラクター開花につながっていった。この『てるてるワイド』も1983年スタートの『ヤングパラダイス』に返り討ちにあい、1987年に終了した。
| 年度 | 放送時間(日本時間) | |
|---|---|---|
| ナイターシーズン | ナイターオフ | |
| 1975 | 平日 21:10 - 24:00(170分) | 平日 21:25 - 24:00(155分) |
| 1976 | 平日 20:30 - 24:00(210分) | |
| 1977 - 1981 | 平日 21:00 - 24:00(180分) | |