大内兵衛
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兵庫県三原郡高田村(町村制後:松帆村、現:南あわじ市松帆脇田)出身。旧制洲本中学校(当時の在校生に川路柳虹、高木市之助がいた[1])、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学経済学科(現:経済学部)を首席で卒業(1913年に銀時計受領)。
東京帝大卒業後は大蔵省に書記官として入省(大臣官房銀行課〈後:銀行局、現:金融庁監督局〉配属[2])。1919年に東京帝大経済学部が新設され、助教授に着任。財政学を担当した。1920年森戸事件に連座して失職し、大原社会問題研究所嘱託となり、マルクス主義を本格的に学ぶ。翌年ヨーロッパへ私費留学してハイデルベルク大学に入学。1923年東京帝大に復職。
1938年、労農派教授グループ事件で検挙・起訴され、大学は休職となる。1944年の第二審において無罪となったが、終戦まで東大への復職はかなわなかった。
GHQの占領時には、当時大蔵大臣だった愛知揆一と渋沢敬三に請われて大内は日本銀行調査局特別調査室の「満州事変以後の財政金融史」と大蔵省の「昭和財政史」を執筆して日銀の顧問にも迎えられた[3][4][5]。東京裁判でも証言台に立った。1945年10月17日、ラジオで、政府の戦時債務打ちきりのため蛮勇を振え、と渋沢蔵相に呼びかけた。
同年11月4日、東京帝国大学経済学部教授会は大内の復職を決定した[6]。1949年に東京大学経済学部を退官した後、1949年に設置された社会保障制度審議会の初代会長を1971年まで務め[7]、生活保護(1950年)[8]や国民皆保険(1956年)と国民皆年金(1958年)など多くの社会保障制度の設立を吉田茂から佐藤栄作まで歴代内閣総理大臣に勧告してきた[9][10]。総理だった吉田茂や鳩山一郎からの大蔵大臣への就任要請を断ったとされる[11][12][13]。また、吉田茂は大内を委員長とする政府統計委員会を新設し、統計審議会に改称された際の初代会長に任命した[14]。
1950年より1959年まで法政大学総長であった。向坂逸郎と共に社会主義協会・社会党左派の理論的指導者の一人として活躍した。1955年5月から6月にかけては、日本学術会議が当時日本と国交がなかったソビエト連邦と中華人民共和国に派遣したソ連・中国学術視察団に加わった。
1957年8月13日、岸信介政権は自主憲法制定ないしは憲法改正を目指し、憲法調査会法にもとづく「憲法調査会」を設置した[15][16]。これを受けて1958年6月8日、大内、宮澤俊義、我妻栄、清宮四郎、茅誠司、恒藤恭、矢内原忠雄、湯川秀樹ら8人が発起人となり「憲法問題研究会」が結成された。50人あまりの知識人が同研究会に集まり、大内が代表世話人を務めた[17][18][19]。
1967年の東京都知事選挙においては門下の美濃部亮吉を強く支持。選挙母体である「明るい革新都政をつくる会」(革新都政をつくる会の前身)の代表理事を務めた[20]。当選後も美濃部都政を助けるなど、実践面でも社会主義を貫いた。
人物
- 傾斜生産方式で日本の経済復興を促進させた有沢広巳は門下である。
- ソ連・中国学術視察団を経て、大内は社会主義について、「私も社会主義を勉強すること実に40年であるが、なにぶん進歩がおそく、社会主義がユートピアであるか科学であるかは、今まではっきりわからなかった。しかし、ここへ来て、いろいろの見学をして見て、それが科学であることはしかとわかった」と述べた[21]。また、経済学の分野に関しては「ロシアの経済学は二十世紀の後半において進歩的な特色のある学問として世界の経済学界で相当高い地位を要求するようになるだろう。……こういう歴史の変革のうちに経済学者としていよいよ光彩を加える名はレーニンとスターリンでありましょう」と、ソ連の計画経済を高く評価し、レーニン、スターリンの両名を経済学者として激賞した[21]。しかし、ソ連の社会主義経済はその後30年あまりで崩壊することとなる。
- ハンガリー動乱について社会主義擁護の視点から、「ハンガリアは(米・英・日と比べて)政治的訓練が相当低い。そのためハンガリアの民衆の判断自体は自分の小さい立場というものにとらわれて、ハンガリアの政治的地位を理解していなかったと考えていい」、「ハンガリアはあまり着実に進歩している国でない。あるいはデモクラシーが発達している国ではない。元来は百姓国ですからね。」と、ソ連の圧政に対して蜂起したハンガリーの国民を批判的に論じた[22]。
- 東大安田講堂事件について論じた論文「東大は滅してはならない」(雑誌「世界」1969年3月号)で、「大学という特殊部落」という表現の記述があり、部落解放同盟の追及を受けたことがある(同誌3月号は回収し、4.5月号で謝罪)。
- 次男大内力も、同じくマルクス経済学者で元東京大学経済学部教授・副総長だった。
- 東京大学経済学部には現在でも彼の名前を冠した「大内兵衛賞」が存在し、極めて優れた卒業論文を提出した学生が表彰されている。他に、戦後の統計の再建に尽力した業績を記念し「大内賞」というものもあり、統計界の最高栄誉とされている。
- 法政大学には大内の名前を冠した「大内山庭園」があり、学生の憩いの場となっている。また2019年に、市ヶ谷キャンパスに完成した新校舎は「大内山校舎」と命名された[23]。
岩波『世界』回収事件
岩波書店発行『世界』1969年3月号の巻頭論文「東大を滅ぼしてはならない」の中で、大内はこのように所感を述べた[24]。
このような運動(引用者註、東大全共闘事件)といえども、その社会的結果が彼らの呼号する社会革命に対してゼロとなるはずはなく、特殊な形で、大学という特殊部落の構造を変えるに相違なく、そのような改革の効用は学生の大学生活の規制への参加という形となるのであろう。
この「特殊部落」という表現に対し、部落解放同盟の朝田善之助らは『世界』編集部と大内に激しく抗議し、謝罪文など多くの措置を約束させた[24]。
この結果、岩波書店は『世界』3月号を書店から回収する措置に踏み切り、翌4月号では編集部と大内の謝罪文を掲載した[24]。
さらに、岩波書店は1969年5月に『広辞苑』第2版の「部落」の項を大幅に改訂させられることになった[24]。
- 第1版
〔部落〕
- 比較的少数の家を構成要素とする地縁団体の民家の一群。村の一部。
- 特殊部落の略
- 第2版
〔部落〕
- (第1版に同じ)
- 身分的社会的に強い差別待遇を受けてきた人々が集団的に住む地域、江戸時代に形成され、明治初年法制上は身分を解放されたが、社会生活上の差別は完全に撤廃されていない。未解放部落。
大内の事件から1年ほどのあいだに、岩波書店では部落解放同盟から数回抗議を受け、1970年7月には編集部長名で全社に「差別用語を死語とし、一切使わない。歴史的記述は伏字にする」という通達を出した[24]。労組や職場ではこの通達に反対の空気も強かったという[24]。
略歴
- 1913年 東京帝国大学法科大学経済学科卒業、大蔵省入省
- 1919年 東京帝国大学経済学部助教授(財政学)
- 1920年 森戸事件に連座して失職、大原社会問題研究所嘱託となる
- 1921年 私費でヨーロッパ留学
- 1923年 東京帝国大学経済学部復職、教授となる
- 1938年 人民戦線事件で検挙、休職
- 1944年 同事件無罪確定、大学辞職
- 1945年 東京大学復職
- 1947年 経済学博士 学位論文「財政学大綱」
- 1949年 東京大学定年退官
- 1950年 法政大学総長に就任
- 1953年 日本統計学会会長に就任[25]
- 1959年 法政大学総長を退任、経済理論学会代表幹事に就任[26]
- 1965年 勲一等瑞宝章受章
- 墓所は多磨霊園。