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ハンガリー動乱

ハンガリーにおける動乱 From Wikipedia, the free encyclopedia

ハンガリー動乱(ハンガリーどうらん、ハンガリー語: Forradalom és szabadságharc、革命と自由への闘争)は、1956年10月23日より11月7日にかけてハンガリー人民共和国で起きた、ソビエト連邦や一党独裁政党のハンガリー社会主義労働者党政権の権威と支配に反対する民衆による全国規模のデモ行進・蜂起・革命。ハンガリー革命ともいう[9][10][11] [12] [13]。

概要 ハンガリー動乱, 交戦勢力 ...
ハンガリー動乱

首都ブダペストを制圧するソ連軍
戦争:冷戦
年月日:1956年10月23日 - 11月10日
場所:ハンガリー人民共和国
結果:ソビエト連邦の勝利
  • 革命の失敗
交戦勢力
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ハンガリーの旗 ハンガリー人民共和国

政治的支援:
ハンガリー労働者党
(10月28日まで)
ハンガリー社会主義労働者党
(11月4日から)
ハンガリー国家保衛庁

ハンガリー革命軍

政治的支援:
ハンガリー労働者党反体制派(10月31日まで)
ハンガリー社会主義労働者党(11月4日まで)
独立小農業者党
ハンガリー社会民主党
全国農民党
キリスト教民主人民党
ハンガリー独立党ほか改革派
ナジ・イムレ政権(英語版)
ウクライナ蜂起軍[1]

指導者・指揮官
ソビエト連邦の旗 ニキータ・フルシチョフ
ソビエト連邦の旗 ユーリ・アンドロポフ
ソビエト連邦の旗 イワン・コーネフ
ソビエト連邦の旗 イワン・セーロフ
ソビエト連邦の旗 ゲオルギー・ジューコフ
ソビエト連邦の旗 ワシーリー・ソコロフスキー
ハンガリーの旗 ゲレー・エルネー
ハンガリーの旗 カーダール・ヤーノシュ
ナジ・イムレ 処刑
マレーテル・パール(英語版) 処刑
ティルディ・ゾルターン
戦力
部隊31,550人
戦車1,130台[注釈 1]
不明
兵士・民兵・武装民間人
損害
ソ連軍死傷者:
722人死亡
1,251人[4]-1,540人[5]
民間人2,500–3,000人[6]死亡(推定)
13,000人負傷(推定)
20万人国外追放・亡命[7][8]
冷戦


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ソ連支持のハンガリー政府側がソ連に鎮圧を要請した。ソ連は当初ハンガリーからの撤退をほのめかしていたが(11月3日に交渉開始)、1956年11月4日に武力による鎮圧を開始し、11月10日に鎮圧した。11月7日にソ連軍によってほぼ鎮圧されるまで15日間続き、ブダペスト以外では銃撃戦は11月12日まで続いた[14]。

この鎮圧によって市民約3,000人から数千人が犠牲となり、20万人[7][8]から25万人のハンガリー人が避難を強いられ、難民となりオーストリアなど国外に亡命した[8][15][16][17]。

名称

ハンガリー動乱の別名には、1956年ハンガリー革命(ハンガリー語: 1956-os forradalom、英語: Hungarian Revolution of 1956)、ハンガリー事件、ハンガリー暴動(ロシア語: Венгерское восстание)、ハンガリー革命、ハンガリー蜂起 (英語: Hungarian Uprising)、ハンガリー反乱(英語: Hungarian Revolt)などがある。名称については発言者の事件への評価によっても変化する[18][注釈 2]。

ハンガリーでの最初の用語は蜂起を意味する felkelés という語が使用された。鎮圧後の1957年から1988年の共産主義時代には反革命を意味する Ellenforradalom と呼ばれた。1990年以降、ハンガリーでの公式呼称は フォラダロム・エス・サバドチェーグ Forradalom és szabadságharc 革命と自由への闘争である。ハンガリー語のForradalomは革命を意味する[19]。これは1848年のハンガリー革命を踏まえている。

背景

ドイツ占領

第二次世界大戦中、ハンガリーは日独伊が主体となった枢軸国の一員であり、1941年のユーゴスラビア侵攻やソ連に対するバルバロッサ作戦に参加した。1944年にソ連の軍隊である赤軍が国境に迫る中、一時はハンガリーは連合国と停戦合意を成立させた。しかし10月のパンツァーファウスト作戦によりドイツに占領され、親独派の矢十字党がハンガリーの支配者となった。一方で離反したハンガリー軍の一部と独立小農業者党、ハンガリー共産党などはソ連占領地域に逃れ、ハンガリー臨時国民政府を樹立した。1945年にはソ連赤軍はドイツ軍と矢十字党政権に勝利した。

民主主義国家時代と共産党の策動

第二次世界大戦終戦時、ハンガリー王国はソ連の地政学的勢力圏内にあった。戦後、ハンガリーは複数政党制の民主主義国家となり、1945年のハンガリー議会選挙では独立小農業者党からなる連立政権が誕生し、大統領ティルディ・ゾルターンと首相フェレンツ・ナジが率いるハンガリー第二共和国が成立した。

ハンガリー共産党は1945年選挙で17%しか得票できなかったが、ソ連の指導でサラミ戦術を用いて、連立政権の政治的権威を低下させていった[20][21]。まず、1945年の選挙後、共産党は国家保衛庁(ÁVH アーヴェーハー) の支配権を掌握した[22]。保衛庁は非共産主義者などの政治反対者を脅迫、虚偽の告発、投獄、拷問で弾圧していった[23]。

ソ連占領と共産主義政権

1947年にソ連軍を後盾とするハンガリー共産党がクーデターを起こし、スターリン主義者でヨシフ・スターリンに忠実だったラーコシ・マーチャーシュが全権を握った[24]。

多党制民主主義は4年間続いたが、ハンガリー社会民主党が共産党と合併してハンガリー労働者党となり、同党の候補者が1949年ハンガリー議会選挙で無投票で当選した。その後、1949年8月20日にはハンガリー人民共和国が宣言され、社会主義国家として建国された。ハンガリー人民共和国はソ連が主導する経済相互援助会議 (コメコン)に加盟し、赤軍のハンガリー駐留を認めた[21]。

ハンガリー労働者党は、ソ連をモデルとして、生産手段と天然資源の国有化や計画経済を伴う社会主義経済体制を確立した。

1949年に経済相互援助会議が結成され、ソ連はハンガリーに恒久的に軍隊を配置する権利を獲得し、ハンガリーはソ連の衛星国となった(ハンガリー人民共和国)。ラーコシの指導下でソ連型社会主義を範とした国家運営が行われ、国家保衛庁は7,000人以上の政治犯を取り締まり、公開裁判にかけた。

政治的弾圧

ラーコシはハンガリー保衛庁を用いて、ハンガリー共産党からチトー主義者とトロツキストとされた7,000人の党員を粛清した。彼らはスペイン内戦に参加したために、スターリンの世界共産主義化計画を妨害した「西側の代理人」であるとして粛清された[25][26][27]。東側諸国のスターリン主義政権の中で、ラーコシ政権は、政治的・性的・宗教的少数派に対して最も残忍な抑圧を行なった[21][28][29][30]

ラーコシ・マーチャーシュ、1948年

1949年、ラーコシ政府はカトリック教会のミンツェンティ・ヨージェフ枢機卿を逮捕、拷問し、見せしめ裁判で有罪判決を下した[31]。罪状は政府に対する反逆罪、ハンガリーにおけるホロコーストなどを行なったナチス・ドイツとファシスト・イタリアへの協力、ユダヤ人に対する宗教的迫害、共産主義者と反ファシズム運動に対する迫害であった[29][30]。実際には、ミンツェンティは第二次世界大戦中のハンガリーではナチス政府に積極的に反対し、レジスタンス運動を行い、教徒に1939年のハンガリー議会選挙で投票しないように奨励し、このために矢十字党率いる統一政府によって投獄されている[32]。

1950年から1952年にかけて、保衛庁は2万6000人以上の非共産主義者の知識人とブルジョアジーを強制的に移住させ、彼らの住宅を没収して共産党員に譲渡した。逮捕された人々は強制収容所に収監されるか、ソ連へ強制移送されるか、あるいは即決で処刑、または見せしめ裁判後に殺害された[26][28]。犠牲者には共産党員も含まれ、保衛庁の秘密警察を設立した内務大臣だったライク・ラースローも1949年に処刑された[26][28]。C.ガティは「ラーコシ政権の恐怖政治は、中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパの他のどのソ連衛星国よりも過酷で、広範囲に及んだ」と指摘している[28]。共産主義崩壊後に設置された「無法社会主義(Törvénytelen szocializmus)事実調査委員会」は、1950年から1953年初頭にかけて、裁判所は65万件の政治犯罪事件を扱い、そのうち38万7000人つまり人口の4%が有罪判決を受けたと報告した[33]。

ラーコシ政権は、ハンガリーのロシア化を推進する「勤勉な知識人」を育成するために教育制度を政治化した。学校や大学ではロシア語と共産主義理論の学習が必須科目となり、宗教学校は国有化され、教師は共産党員に置き換えられた[34][35]。

1950年2月、ハンガリー労働者党中央委員会は、教育におけるブルジョア指導者の交代を目標としていると述べた。教育宗教大臣のヨージェフ・ダルヴァスは「様々な文法学校を工業技術学校、農業技術学校、経済的な職業高校、そして学校教師と幼稚園教諭の養成学校へと転換することは、多くの必要な技術者を供給することで、5カ年計画の成功につながる。」と述べた[36]。1950年10月30日、ハンガリー教育の学校と大学において、すべてのカリキュラムにロシア語とマルクス・レーニン主義が必修化された。1951年までに107冊の新しい教科書が発行され、そのうち61冊はソ連の教科書をハンガリー語に翻訳したものであった。さらに、5年間で学生数を3万人増やす予定だった[35]。

経済状況

第二次世界大戦前のハンガリー経済は過度にドイツへ依存していたため、矢十字党政権敗北後の1946年には通貨のペンゲーが暴落してハイパーインフレーションが起こり、国が疲弊した。さらに1947年のパリ条約によってソ連、チェコスロバキア、ユーゴスラビアに対して30億ドルの戦争賠償を払う義務と、赤軍の駐屯費を負担させられた。これは当時の国内総生産の2割程度に相当した。さらにその後の経済政策の失敗から生活水準は低下し、1949年時点の労働者の平均収入は、戦前の1938年の9割程度まで回復していたところが、3年後の1952年には7割まで急速に落ち込んだ。労働者の不満は工場の自主管理と労働組合結成の自由を要求するという形となり、それはサッカー場での暴動という形で現れていた。また、農民たちも政府による強制的な集団化から悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求していた。

1950年代初頭、ラーコシ政権の経済政策は国民一人当たり所得を増加させたが、工業化に向けた強制的な財政拠出によって労働者の所得が減少し、生活水準は低下した。官僚制による資源管理の不備によって物資不足が生じ、食料配給制によってさらに悪化した[37]。1952年の労働者の所得は、1938年の労働者所得の3分の2にまで落ち込んだ[38]。

ハンガリーは、進駐ソ連軍への負担金、さらに、ソ連、チェコスロバキア社会主義共和国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に3億USドルの戦争賠償金を支払った[39]。1946年、ハンガリー国立銀行は賠償費用がハンガリーの年間国民所得の19-22%に上ると報告した[40]。これは戦後のハンガリー通貨ペンゲーの下落に伴うハイパーインフレーションにおいては重い国家支出であった[41]。さらに、ソ連が主導する経済相互援助会議(COMECON)への参加により、西側諸国との貿易が妨げられ、マーシャル・プラン(1948年)を通じたアメリカ合衆国の戦後復興援助を受けることもできなかった[42]。対外債務の返済が国民生活の回復よりも優先され、そして経済緊縮財政の累積的な影響により、政府の対応は国民の怒りを買い、ソ連の影響への不満が煽られた[43]。

非スターリン化

1953年にスターリンが死去すると、共産圏全土で非スターリン化が起こった。ジャーナリストや文筆家からも労働環境の改善や言論の自由が要求され、学生も大学の狭き門と学ぶ環境を改善しようとして当局から独立した学生組織を設立していた。人民全体から不平不満が巻き起こる中、指導政党であったハンガリー勤労者党内でもラーコシらスターリン主義者を批判する改革派が台頭した。そこへソビエト共産党内部で行われたニキータ・フルシチョフのスターリン批判演説が、幹部たちに大きな議論を呼び起こした。1953年6月、ラーコシはモスクワからの圧力を受けてナジ・イムレに首相の座を譲らされた。ナジはラーコシ時代の経済政策を改めようとしたが、書記長に留まっていたラーコシ派の巻き返しによって1955年4月に失脚した。

1954年7月4日、スイスのベルンで行われたサッカーのワールドカップ決勝で圧倒的な優勝候補であったハンガリーチームが敗れるという番狂わせが生じた。各地の都市で負けに怒った群衆が街頭に出て、ブダペストでは1万人以上が抗議デモを行い、ハンガリー放送局の占拠が起こるに至った。ブダペストのデモは3日間続き、当初サッカー選手と監督に向けられていた怒りの矛先は、やがて体制への失望から党指導部に向けられ、ハンガリーで最初の社会主義政権に対する抗議デモとなった[44][45]。これを1956年の動乱の先駆けだとみる歴史家も多い[44][45]。しかし、1955年まで言論は比較的自由で、知識人やジャーナリストがラーコシ・マーチャーシュ政権を自由に批判できた[46]。

1956年7月18日、ソ連の圧力によりラーコシが党書記長の辞任に追い込まれるのを契機に、ハンガリーの国内問題を見直そうとする動きが学生やジャーナリストの間に広がった。後任には、スターリン主義者のゲレー・エルネーが選出されたが、これに反発した市民は集会禁止令にもかかわらず、ブダペストで大規模なデモを行なった。ソ連指導部は急遽、党幹部会のアナスタス・ミコヤンとミハイル・スースロフの派遣を決定したが、事態を収拾する間もなく蜂起が勃発する事態に至った。

ミコヤンとスースロフがハンガリーに出かけている間に、ソ連指導部はハンガリーに対する出兵を決定した。ハンガリーから戻って状況を知ったミコヤンはフルシチョフの自宅に押しかけ、自ら命を絶つことをほのめかして派兵の撤回を求めたが、フルシチョフはこれを拒否した[47]。

経緯

1956年10月22日、ブダペスト工科経済大学の学生らは、ラーコシ政権によって禁止されていた学生組合MEFESZを再結成した[48]。

10月23日から11月3日

穴が開けられたハンガリーの国旗。ハンガリー人達は、抗議の意を込めて、国旗の中央に施されたソ連式の国章を切り抜いた。
コルビン劇場

1956年10月23日、ゲレーの退陣を求めて学生たちがブダペストをデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった。夜になりデモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、勤労者党指導部は急遽、大衆に人気のあった前首相のナジ・イムレを復職させる決定をした。

翌24日、ナジは正式に首相に任命されたが、その頃ブダペストの町はすでに民衆とソ連軍の戦闘状態にあった。他の地域はソ連軍と革命派との間の停戦が行われたりソ連軍が革命の動きを阻止した管区もあるなど、平穏な状態が保たれていた。その後ブダペストのソ連軍も結局は戦闘を停止した。

夜のうちに労働者評議会[注釈 3]と国民評議会[注釈 4]が組織された。また1945年や1949年の弾圧以来、初めて政治的な要求を行う政党が結成されたが、大多数の民衆は社会主義を維持しようとする政党を支持した[注釈 5]。このような中で教会の名士たちを含む多くの政治囚たちが釈放された。また大衆はワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政権に迫ったが、このことは再びソ連の介入を招くこととなった。

10月25日、ナジは戒厳令を取り下げた。街の人々の中にはソ連軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。説得に応じたソ連兵らは、ハンガリー人を戦車に載せ、国会前広場へと移動し約700人が集まった。しかし、突然発砲が始まった。国会前広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。この事件については国家保衛庁の発砲が原因であるとの見解もある。

最も激しい戦闘はコルビン劇場(フランス語版)のあるコルビン広場で起こった。民衆は火炎瓶を用いてソ連軍部隊に抵抗した。ミシュコルツでは労働者によるストライキが起き、ブダペストでナジと直談判を行った。

10月27日夜には、ミコヤンの報告によると、ミコヤンとナジとの会談が行われ、その結果ソ連軍の撤退が宣言された。

10月29日には警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成、翌10月30日にはミコヤンが「ハンガリー軍に統制を任せるべき」と報告した。これを受けて、ソ連軍の撤退が開始された。しかし同日午前9時頃、勤労者党ブダペスト地区本部で秘密警察隊員と民衆との間で衝突が始まり、武器を持たない秘密警察隊員らが建物から出ては次々と民衆により射殺された。その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らがリンチされた挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態になった。この事件を聞いたミコヤンは10月31日に反ソ活動の活発化を報告している。

フルシチョフはユーゴスラビア大統領のヨシップ・ブロズ・チトーとの会談で軍事介入の可能性に言及し、ナジは中立を宣言したが、国際連合や西側諸国からの具体的支援はなかった。

11月4日以降

ブダペストのジグモンド・モーリツ広場で破壊されたソ連軍のT-34-85戦車。車体は裂け、砲塔は地面に落下している。

11月4日に新たな戦車2,500両・15万人の歩兵部隊のソ連軍部隊が侵攻した。侵攻作戦に参加した兵士の多くは読み書きができないかロシア語が話せない中央アジア出身の者であり、 彼らはベルリンにナチスの反乱を壊滅しに来たのだと信じていた。また、1956年に起こっていた第二次中東戦争のエジプトでイギリスやフランスと戦っていると信じていた兵士すら存在した。

11月8日までにブダペストの大部分がソ連の支配下に置かれると、カーダール・ヤーノシュは革命的労働者農民政府首相兼ハンガリー共産党書記長に就任した。ゲオルギー・マレンコフとミハイル・スースロフ率いるソビエト最高会議幹部会監視下で指導部が粛清されたため、再編された党に再加入したハンガリー人は少数であった[49]。

11月10日に労働者評議会や学生・知識人たちが休戦を呼びかけるまで、ハンガリーの労働者階級はソ連軍との戦闘で重要な役割を演じた。11月10日から12月19日の間、労働者評議会はソ連の占領軍と直接交渉し、結果として何人かの政治犯の釈放はできたが、ソ連軍を撤退させることはできなかった。以後、ソ連に支援されたカーダール・ヤーノシュが新しい共産主義政府を組織し、1956年以降ハンガリーを統治していくこととなった。

1957年1月、ソ連は新たなハンガリー政府首脳を任命し、ハンガリー人自身による改革を阻止しようとした。また、このことにより国旗から中央の国章が削除された。散発的な武力抵抗やストライキは1957年の中頃まで続いた。

事件後

ソ連軍がブダペストを制圧した際、ナジ・イムレはルカーチ・ジェルジュ、ロソンチ・ゲーザ、ラースロー・ライクの未亡人ユリアと共にブダペストのセルビア (ユーゴスラビア)大使館に避難した。残りのグループは1958年にブダペストに送還された。ソ連とカーダール政権はハンガリーからの安全な脱出を保証していたが、ナジ一行は11月22日に大使館を出ようとした際に逮捕され、ルーマニア社会主義共和国に連行された。ロソンチは裁判を待つ間、刑務所でハンガーストライキを行っていたところ、看守が気管に栄養チューブを押し込んだことで死亡した[50]。ナジは1958年6月に秘密裁判の後、マレーテルとミクロシュ・ギメスと共に処刑された[51]。ほか、政権の閣僚や評議会を指導していた多くの市民がカーダール政権によって処刑された。1960年代に発表されたCIAの推定によると、およそ1,200人が処刑された。このとき逮捕された政治囚は1963年までにカーダール政権によってほとんどが釈放された。この一連の戦闘の結果として、ハンガリー側では死者が17,000人に上り、20万人が難民となって亡命した[注釈 6]。ソ連側も1,900人の犠牲者を出した。

反乱の直後、数千人のハンガリー人が逮捕された。最終的に2万6000人が逮捕され、そのうち2万2000人が有罪判決を受けて投獄され、1万3000人が抑留され、229人が処刑された。ハンガリーの元外務大臣ゲザ・イェシェンスキーは、350人が処刑されたと述べている[52]。約20万人が難民としてハンガリーから逃れ、1956年の冬にはオーストリアに逃れた[53]。

ハンガリー難民は37カ国に再定住し、多くはオーストリアに移住した[54]。

労働者評議会による散発的な抵抗とストライキは1957年半ばまで続いた[55]。

1963年までに、処刑されなかったハンガリー革命の政治犯のほとんどが釈放された[56]。

党員数は蜂起前の80万人から1956年12月までに10万人に減少したものの、カーダールは権力を着実に強化し、反対派を無力化した。新政府は蜂起中に表明されたハンガリー民族自決という民衆の理念を掲げることで支持獲得を試みたが、ソ連軍は依然として駐留していた[57]。

1956年以降、ソ連はハンガリー軍を厳しく粛清し、残存部隊に政治的教化を再開した。1957年5月、ソ連はハンガリー駐留軍を増強し、ハンガリーはソ連軍の恒久的駐留を承認した[58]。

1956年11月のソ連によるブダペスト侵攻の際、ミンツェンティ枢機卿は、政府が1949年の反逆罪での有罪判決を覆さない限り、出国を拒否したが、米国大使館に政治亡命を認められた。 。健康状態の悪化とバチカンからの要請により、1971年にオーストリアへ向かった[59]。

ハンガリー動乱の指導者の一人のニコラス・クラッソーは『ニュー・レフト・レビュー』編集委員でもあった。死の直前にペーター・ゴーワンとのインタビューで、「スターリンは1952年のソ連第19回大会中ずっと沈黙を守っていたが、最後に短い演説を行った。彼は、進歩的ブルジョアジーが捨て去り、労働者階級が拾い上げるべき二つの旗、民主主義と民族独立の旗があると述べた。1956年にハンガリーの労働者がこれらの旗を高く掲げたことに誰も疑問を抱くことはできないはずだった。」[60]。

国際社会の対応

西側諸国は、東ヨーロッパにおけるソ連の支配の撤回を唱え、またソ連が社会主義の勝利を宣言したにもかかわらず、当時の国家指導者や後の歴史家は、ハンガリー革命の失敗を冷戦が膠着状態に陥った証拠と見なした[61]。ハンガリーの歴史家チャバ・ベケスとジョンズ・ホプキンズ大学歴史学教授チャールズ・ガティによれば、アメリカ政府は、オーストリアとユーゴスラビアに隣接するハンガリーをモスクワが手放すことはないと理解していたため、ヨーロッパ大陸大陸の二つの陣営に分裂したことを事実上承認したと指摘している[61]。ガティは1957年にハンガリーからアメリカに亡命した[62]。

西ドイツ

西ドイツ外務大臣ハインリヒ・フォン・ブレンターノは、東欧の諸国民に対し、自らに破滅的な結果をもたらす可能性のある劇的な行動を取らないよう勧告した。北大西洋条約機構 (NATO)事務総長ポール=アンリ・スパークは、ハンガリー動乱を「国民の集団自殺」と呼んだ[63]。1956年12月、西ドイツのドイツ社会民主党中央委員ヘルベルト・ヴェーナーは、「ハンガリー蜂起の共産党員に対する破壊の熱狂」を非難した[64]。 1957年、フルシチョフは「米国による支援は、むしろ絞首刑にされた人間にロープを与えるようなものだ」と新聞でコメントした[65]

エレノア・ルーズベルトは1957年5月10日、ザルツブルクのローダー避難所で亡命中のハンガリーの革命家たちと面会した。

国際連合

1957年1月、国際連合事務総長ダグ・ハマーショルドは、ハンガリー事件の調査を求める国連総会決議に応えて、ハンガリー問題に関する特別委員会を設置した[66]。特別委員会は、オーストラリア、セイロン(現スリランカ)、デンマーク、チュニジア、ウルグアイの代表から構成され、ニューヨーク、ジュネーブ、ローマ、ウィーン、ロンドンで公聴会を実施した。5ヶ月にわたり、111人の難民の聞き取り調査、および文書、メディア、写真、映像その他の記録、他の200人の証言が精査された[67]。ソ連の衛星国だったハンガリー人民共和国とルーマニア社会主義共和国の両政府は特別委員会の国連職員の入国を拒否し、ソ連政府は情報提供の要請に応じなかった[68]。報告書は1957年6月に総会に提出され、「カーダール政府とソ連の軍事占領はハンガリー国民の人権を侵害した」と結論付けた[69][70] [注釈 7]。

委員会の報告書とその作成者の動機は、ソ連とカーダール政権の国連代表団によって批判された。ハンガリー代表は報告書が事実を歪曲していると非難し、委員会の設立は違法だと主張した[73]。ソビエト連邦外務省が発行する雑誌には、この報告書を「虚偽と歪曲の寄せ集め」であると非難する記事が掲載された[74]。

1958年12月12日、国連で「ハンガリー国民の抑圧とソ連の占領」を非難する総会決議が承認された[75]。

国際支援機関

国際ケア機構はハンガリー難民に衣類、食料などを提供した。アメリカ合衆国農務省はCAREと協力し、軍艦を使って50万個以上の荷物を輸送し、赤十字が物資を配給した[76][77][78][79]。赤十字社とオーストリア軍はトライスキルヒェンとグラーツに難民キャンプを設置した[79][80]。

メディア

『タイム』誌は、ハンガリーの自由の闘士を1956年のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選出した[81]。

2006年、ハンガリーの首相ジュルチャーニ・フェレンツは蜂起50周年を記念する演説で、このタイム誌の表紙を「自由なハンガリーの顔」と呼んだ[82]。ジュルチャーニは「これは理想化されているが、まさに革命家の顔だ」とコメントした[83]。

スポーツ・音楽

1956年メルボルンオリンピックでは、ソ連に抗議して、スペイン、オランダ、スイスによるボイコットが起きた[84]。

12月6日、ソ連とハンガリーのチームが水球の準決勝で衝突を起こした。試合は非常に激しく、観客間の乱闘を鎮圧するため、試合終了間際に中断された。この試合は「メルボルンの流血戦」として知られる[85][86]。ハンガリーチームは4対0で試合に勝利し、金メダルを獲得した。バンディのノルウェー代表は、ソ連が参加することに抗議し、1957年の第1回バンディ世界選手権を辞退した。

1957年1月6日、エド・サリバンの人気テレビ番組に出演した当時22歳のエルヴィス・プレスリーは、ハンガリーの救援活動への支援を訴え、ゴスペルソング『Peace in the Valley』を歌った。プレスリーによって集まった寄付金は約2,600万スイス・フラン(当時のドル換算で600万米ドル、現在の6,880万ドル)にのぼり、赤十字国際委員会によって配布された。2011年3月1日、ブダペスト市長のイシュトヴァン・タルロスはプレスリーを名誉市民にし、大通りの交差点にある広場はプレスリーにちなんで名付けられた。

海外の共産党への影響

ハンガリーにおける一連の出来事は西ヨーロッパ諸国の共産党政権に亀裂を生じさせた。サンマリノでは、社会党と共産党の連立政権に所属する社会党員の一部が、ソ連による弾圧を非難しなかった共産党との同盟関係を破棄し、政府は麻痺状態に陥り、憲政上の危機のロヴェレタ事件に至った。この結果、新たな民主主義政権が誕生し、サンマリノにおける12年間の共産党政権は終焉を迎えた[87]。

イタリア共産党は分裂に見舞われた。機関紙『ウニタ』によると、ほとんどの一般党員とパルミロ・トリアッティやジョルジョ・ナポリターノなどの党指導部はソ連の行動を支持した[88]。しかし、共産主義労働組合のイタリア労働総同盟のジュゼッペ・ディ・ヴィットリオ、アントニオ・ジョリッティ、ロリス・フォルトゥーナや、共産党内で影響力のある他の多くの人々、また、イタリア社会党のピエトロ・ネンニもソ連の介入に反対した。2006年にイタリア共和国大統領に選出されたナポリターノは、2005年の自伝で、ハンガリーにおけるソ連の行動を正当化したことを後悔しており、当時は党の団結とソ連共産主義の指導が重要だと信じていたと述べている[89]。

ハンガリー事件後、英国共産党は数千人の党員を失った。同党新聞「デイリー・ワーカー」特派員ピーター・フライヤーは蜂起の暴力的な鎮圧について報道したが、その記事は党指導部によって厳しく検閲された[90][91]。ハンガリーから帰国後、フライヤーは新聞社を辞任し、その後、共産党から除名された。

フランス共産党はソ連の行動を支持した。歴史家エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリは共産党を辞任した。フランスの作家アルベール・カミュは「ハンガリー人の血」と題する公開書簡で西側諸国の不作為を批判した。共産主義者で哲学者のジャン=ポール・サルトルでさえ論文「スターリンの幻影」でソ連を批判した[92]。

中国共産党は、1956年のソ連の脱スターリン主義と、東欧の蜂起に似たような問題に直面する懸念をもってハンガリー事件を捉えた[93]。一部の指導者は、ハンガリーとポーランドの抗議行動を合わせて、重工業の発展を過度に重視し、国民の生活を軽視することの危険性を示すものと捉えた[94]。

毛沢東はハンガリーでの弾圧を教訓とし、「ストライキや請願、あるいは不利な発言を禁じると、弾圧に頼るばかりで、ついにはラーコシになってしまう。」と述べた[93]。その後、中国共産党指導部が百花斉放百家争鳴における党内外の批判の激しさを懸念するようになると、毛沢東は、中国がこの「大戦闘」に勝利しなければ「ハンガリー事変」に陥る危険があると述べた[95]。

中華民国(台湾)の国民党・国連代表である蔣廷黻は、ソ連の行動を非難し、中華民国政府はハンガリー難民救済のために寄付金を集めた[96]。

革命の性質についての議論

破壊されたスターリン像

ハンガリー動乱についての歴史的・政治的意味については、当時の体制の位置づけや民衆による蜂起の意義に関して、今もなお様々な見解がある。以下に、革命の性質についての主要な見方を列挙する。

社会主義に対して肯定的な見解からのもの

  • ソ連や中国など社会主義陣営の共産党に一般的な見解としては、「かつてのホルティ・ミクローシュ政権のような軍事独裁的な政府と封建的な資本主義経済を復活させようとした聖職者やファシストによる試み」だという見解が公認されている[注釈 8]。
  • 新左翼の一部やアナーキストの立場からは、ハンガリー労働者評議会を基にした新しい構造の社会を作ろうとした自由主義的な社会主義者によるアナーキズム的な革命という見方がある。
  • トロツキストは、この事件をレフ・トロツキーが唱えた「プロレタリア政治革命」であるとみなし、スターリン主義の崩壊が始まった、と認識した。
  • 社会民主主義的な立場や共産主義でも自主管理的な志向を持ったり、民主主義政体を維持すべきであるとする立場(=ユーロコミュニズム)からは、ユーゴスラビアの自主管理社会主義や社会民主主義国家であるスウェーデンのような体制に改革しようとした社会主義者による民主的な革命であったという見解がある[注釈 9]。

社会主義に対して批判的な見解からのもの

日本における影響と評価

ハンガリー動乱は日本でも左派、右派問わず反響を呼んだ[18]。当時の論壇は旧帝大出身の教授による、マルキシズムと日本型近代主義が主流を占めていた。大内兵衛は雑誌『世界』の座談会上で、この動乱はハンガリーの政治的訓練が低いために起こったことであるとハンガリーを批判し[97]、ソ連介入止む無しと発言した[98]。また、ハンガリーを「百姓国」と表現[98]している。上原専禄もハンガリー人民を「神経質」とする旨の発言が残っている[99]。作家の野上弥生子も「ロシアといえば、第二次戦争の後漸くできあがったハンガリアの人民民主政体が一度独占資本家、地主、…軍人の支配に逆転しようとするのを、少々粗暴に引き戻そうとしたわけで…」[100]と武力介入したソ連を擁護した。当初はハンガリー人民に対して同情的なスタンスであった[101]山川均も、のちに「(農民主体の国だから)労働者はそれほどいない(だから革命などありようがない)」と発言し[98]、社会主義の進歩性にそぐわないハンガリーは遅れた国であるとした。

その一方で、「ソ連がハンガリア[注釈 11]でやったようなことは今日まで多くの帝国主義国がやってきたことである」と断じた高橋正雄[102]など、ソ連側に否定的見解を示した知識人も少数ながら存在した。

当時警視庁のキャリア官僚だった佐々淳行は『中央公論』(1957年3月号)で発表した論文で、ハンガリー動乱を受けてソ連型社会主義の決定的な欠陥が明らかとなったと指摘し、その反面として日本における現実的な行動原理を示した。当時は官僚が論文を発表すること自体が異例で、これまでの反動的な保守とは全く異なる近代的な保守理論は、現役警察官の圧倒的支持を受けたといわれる[103]。佐々は保守・右翼・反共の立場からハンガリーの警察が民衆を弾圧したやり方で弾圧するようなやり方を取りたくないとも発言している[18]。

日本ハンガリー救援会

ハンガリー動乱により発生した難民を救済するため、社会党右派の西尾末廣、自由民主党の芦田均らが中心となって日本ハンガリー救援会を組織した。オーストリアの収容所を訪問し、救援物資や義捐金を届ける活動を行った。しかしこの活動は、政治的亡命を承認しない日本の国策とソ連を刺激することを恐れた日本政府の政治的理由から次第に下火になった[注釈 9]。

野上弥生子は「事件が起こるまで『ハンガリー』がどこにあるかすら知らなかった者がにわかに地球儀を買いに走り、またにわかに募金活動をはじめだす光景に複雑な思いがする」と発言した[注釈 12]。

左派政党による評価

前年に左右統一したばかりの日本社会党への影響は、この事件を党の路線としてどのように反映させるかという点で、党内の認識の相違として現れた。大まかに言うと、右派はソ連型社会主義破綻の象徴とし、左派は反革命とみなした[105]。第13回党大会でテーゼを発表するにいたり、左派と右派の間で論争が巻き起こったが、最終的にはハンガリーの自由化運動についてソ連の武力干渉を許さないとした一方、反動勢力に利用された面があるという妥協的な声明に終わった。これにより社会党は左派が主流を占めることとなる。

日本共産党では、ハンガリー動乱について当初は様々な論争が起こった[106]が、宮本顕治が党中央委員会の多数派を指導するにいたり、ソ連の武力介入を機に反革命とした。宮本の路線への反対派は、1958年の第7回党大会を機に共産党を追放されることとなる。ただし、日本共産党は1987年に刊行した『日本共産党の六十五年』で、ハンガリー事件でのソ連の軍事介入は、社会主義の大義、民族自決権に反する干渉行為であったとし、ソ連の実力行使武力は容認できないものだったが、当時はその認識を持っていなかったと修正した[107]。

新左翼の誕生

元青年共産同盟の黒田寛一もソ連共産党第20回大会で行われたスターリン批判を受け、ソビエト共産党の根底にあるスターリン主義を見抜いた。東欧での民衆反乱を予言した『スターリン主義批判の基礎』を発表[108]し、ハンガリー動乱でソ連を擁護した社会党や日本共産党と絶縁した。この後黒田は「革命的マルクス主義」という独自の思想を展開し、その実践として「日本革命的共産主義同盟」を創設し、新左翼[注釈 13]の先駆けとなった。黒田らはハンガリーの人民民主主義と称されるものは人民の基盤に基づいていないソ連の都合に合わせた体制であるとして、ソ連の軍事介入を非難、ハンガリー動乱を「革命」と評した。

ハンガリー共産主義体制の終焉と再評価

ハンガリーの国会議事堂前には中央に穴が開けられた1956年の国旗が飾られている。

東側陣営だったハンガリーではソ連崩壊による民主化まで動乱について語ることは長く禁じられた。ソ連を含む東側諸国では否定的にしか報じられず、一般市民はその実態を知らず、存在すら知らない者もいた[109]。ハンガリー国内でも、この事件について公に議論することはその後30年間禁止されたが、1980年代後半にペレストロイカ政策が実施された頃から再評価が行われた[注釈 14]。

ペレストロイカの影響でハンガリー社会主義労働者党でも改革派の勢力が強まり、1989年に至り動乱の評価を修正し復権させた。社会主義労働者党の自らの自己批判は、後の東欧革命への導火線となった。

  • 1989年2月の総括文書「四十年間に関する報告」の中に「1956年10月の大衆蜂起」と動乱を武装大衆蜂起とする規定に定めた。それまでの「反革命」という表記を改め、「大衆の目からは、一種の民族独立運動」に転化したと指摘した。また11月の「ソ連軍の第二次介入中にも社会主義の徹底的民主改革と革新への努力が力となり、それは動乱中にも存在し続けた」と記述している。結局、ナジ政権はその努力にもかかわらず、情勢へのコントロールを失い、逆に情勢に押し潰されたと分析した。
  • 1989年3月のナジの遺体発掘により、再評価は決定的となった。再埋葬式の式典に際し、党表明が載せられた。
    • 式典は再埋葬を歴史的、象徴的出来事と捉えている。 
    • ナジ及び裁判で有罪となった政治家達の正当な評価。
    • ハンガリー事件の正当な評価及び、外国への事件の資料の公表許可。
    • ナジはハンガリー史において重要な人物であり、国家救済のために闘いスターリン主義を抑え不正を許さず反革命と闘った。ナジは道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した。
    • 事件のすべての犠牲者はハンガリー国民である。この国民的損失を、ナジの再埋葬式典で、国民和解のシンボルとならなければならない。

1989年6月16日、ナジの遺体は厳粛に再埋葬された[51]。

ハンガリーはこの年をもって社会主義独裁を放棄した。それはナジの理想そのものであり、冷戦終結にも重要で計り知れない役割を演じた。ハンガリー政府は自国民の和解のみならず、鉄のカーテン撤去や汎ヨーロッパ・ピクニックへの協調など、西欧資本主義社会との和解を演出した。

1968年の「プラハの春」にも社会主義国家で最初に正当に評価を下した。

1991年12月、ミハイル・ゴルバチョフ政権下の解体されたソ連とボリス・エリツィンを代表とするロシアとの間で締結された条約の前文において、1956年のハンガリーにおけるソ連の行為について公式に謝罪が表明された。エリツィンは1992年にハンガリー議会で謝罪した[52]。

現代

イロナ・トートは当時女子医学生で、共産主義体制に対する抵抗運動のパンフレットの制作に携わった。トートは1956年11月に逮捕され、暴徒による殺人の共謀者として起訴され有罪となり、1957年6月27日に処刑された。2000年、ハンガリー政府は革命に関与した罪で有罪判決を受けた人々を無罪とする「イロナ・トート法」を可決した[110]。

2006年2月13日、アメリカ合衆国国務省は1956年ハンガリー動乱の50周年を記念した。コンドリーザ・ライス米国国務長官は、1956年のハンガリー難民が米国その他の受入国に果たした貢献、そして1989年のベルリンの壁崩壊など共産主義政権に対する抗議運動の際に東ドイツ人に避難所を提供したハンガリーの役割についてコメントした[111]。2006年6月22日、米国大統領ジョージ・W・ブッシュはハンガリー革命50周年を記念してハンガリーを訪問した[112]。

2023年8月、ロシア連邦大統領補佐官ウラジーミル・メジンスキーが執筆した歴史教科書は、1956年のハンガリー動乱は西側諸国が組織したファシスト蜂起であったと評した[113]。同年9月25日、ハンガリーの外務貿易大臣ペーテル・シーヤールトーは「これらの人々をファシストと呼ぶことは全く受け入れられない」と抗議した[114]。

記念

ハンガリー革命中に旧ユーゴスラビア大使館に避難したナジ・イムレを追悼する、ブダペストのセルビア大使館の記念碑

1989年10月23日、ハンガリーは一滴の血を流すこともなく社会主義路線を放棄してハンガリー第三共和国を樹立した。10月23日は1956年にハンガリー動乱が勃発した日付でもあり、この日は現在「1956年革命、および共和国宣言の日」としてハンガリーの祝日に制定されている[115]。

1960年代後半に、カリフォルニア州ロサンゼルスのマッカーサー公園の北西隅に、ハンガリー系アメリカ人コミュニティがハンガリーの自由の闘士たちを称える記念碑を建てた。オハイオ州クリーブランドのミンズゼンティ枢機卿広場にも記念碑がある。デンバーには、1968年蜂起を記念して名付けられたハンガリー自由公園がある[116]。

ポーランドのシュチェチンやブダペストにブダペストの少年像がある。

脚注

関連文献

ハンガリー動乱を題材とした作品

関連項目

外部リンク

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