大口清澄
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清澄は、阿波徳島藩家臣大口軌逵の次男に生まれる[1]。母は森久品の妹[1]。初名を大口秀之丞といい、元服して大口茂右衛門清澄と名乗った[1]。父の軌逵とともに徳島藩蜂須賀家に仕えた[1]。初め庄野八兵衛の娘を正室に迎え入れたが、離別して猪子之蕃の娘を継室とした[1]。
清澄は次男であり家督を継がない予定だったため、初めは奥小姓の職についていた[1]。ところが兄の快蔵が早世したため[1]、正式な大口家の後継と決定する。
寛政12年(1800年)12月2日、軌逵が病死したため、享和元年(1801年)4月1日に大口家の家督を継ぐ[1]。阿波大口家9代当主となって、蜂須賀家の城下に250石を領した[1]。文化元年(1804年)から参勤交代の行列の一人に名を連ね、主君に従って江戸に供する[1]。江戸では池田周防の屋敷に行って交流を深めたという[1]。また清澄には子がおらず、清澄も男系では大口氏の出自でなかったため、大口氏諸流の血縁にあたる服部家の服部信守次男・服部牛五郎を養子に迎えた[1]。弘化2年(1846年)12月9日、病死する[1]。