出羽海部屋に入門し、1923年1月場所に初土俵をふむ。1930年5月に新十両、1931年5月に新入幕を果たした。しかし、その直後の1932年1月、春秋園事件によって一時協会を脱退、天竜たちの関西協会に所属し、解散まで行動をともにした。1937年8月、「関西角力協会」主催の最後の本場所(トーナメント制)で優勝している。
1938年1月、十両格で復帰、すぐに再入幕を果たしその後も5年にわたり幕内中堅で活躍した。右四つからの寄り身に味があったという。羽黒山政司の大関昇進前後に、3連勝しているのが、めだった殊勲の星であった。1942年5月場所には、37歳で優勝旗手の栄誉に輝いている。
1943年5月場所限りで引退、年寄千賀ノ浦を襲名したが、まもなく廃業し、故郷にもどったという。