大村しげ
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1918年(大正7年)11月6日、京都府京都市の祇園の仕出し料理店で長女として誕生する。仕出し料理店を営んでいた父の死後は、看板を汚さないためにも店の引継ぎを断っている。1935年(昭和10年)、京都女子専門学校(現・京都女子大学)国文科に入学、京都市中京区寺町姉小路に借家で一人暮らしを始める。以降没するまでここが本拠となった[1]。1965年(昭和40年)に京都西陣少年ホーム(青年の家)に非常勤職員として入所。1970年(昭和45年)から執筆に専念するようになる。執筆では主に京都の食べ物や暮らし、お店、職人技などをテーマにして記録し、随筆を書いて人気を得た[2]。1974年(昭和49年)からは朝日新聞京都版に週2回、「おばんざい」という名称でコラムを連載、京料理研究家として認識されるようになり[3]、京都のおばんざいという京ことばを随筆家の平山千鶴や秋山十三子とともに全国に広めた[4]。生活は執筆と同じように、京都の衣食住の習慣を丹念に送る一人暮らしの生活を続けていた[5]。1982年(昭和57年)には初めての海外旅行で「祇園ばやしに似ている」と感じたガムランに引かれ、インドネシアのバリ島に訪れた。それ以後は毎年、バリ島を訪れるようになっている[6]。執筆活動以外では、1985年から1986年の間で国会で国家秘密法案に関する動きに関して、法案再提出の際、京都府立大学教授、寿岳章子ら京都府下に住む女性145人とともに、法案反対の活動を行った。反対のアピールの際には、基本的人権が奪われかねないと警鐘を鳴らし、男性のみにまかせず、自分たちの課題として女性も声をあげるべき、と表明している[7]。1994年(平成6年)に脳こうそくで倒れて以後は、車椅子生活を送る。晩年は京都とインドネシア、バリ島を往来し、車椅子生活の視点から障害、福祉のあり方をテーマにした随筆集『京都・バリ島 車椅子往来』[8]を出版している[2]。最終的には車椅子でも生活しやすいバリ島に移住のようになっている[6]。1999年(平成11年)3月18日午前3時、心疾患のためインドネシアバリ島の病院で亡くなった[9]。遺骨は、遺言状で伝えていたとおり、のど仏は岐阜・東光寺の弁天堂に納骨された。2000年(平成12年)3月18日には、ゴア・ガジャの海岸で散骨されている[10]。没後は60数年過ごした京都の町家の家財道具や遺品約1万5000件が国立民族学博物館に寄贈されている[2]。
大村しげコレクション
京都市中京区寺町姉小路東入の借家に遺された家財道具、遺品は国立民族学博物館に生前の関係者ゆかりの物品以外はすべて寄贈された。これらは「大村しげコレクション」と呼ばれている[11]。資料の収集は借家の明け渡し期限が迫った2000年(平成12年)4月に家の間取りと家具の位置を記録後、トラックで博物館に搬送された。当初は遺品等の聞き取り調査も行っていたが、膨大な量のため、途中で聞き取りを中止し、作業期間を1日延長させて、その時点で借家に遺っていたものをすべて収集した[12]。コレクションの内容としては、衣類・繊維製品、箪笥や袋などの収納用品、祇園祭の粽御札や護符などの信仰関係用品、執筆関連用品などで構成されている[13]。コレクションの特徴として、物品の量が多いことがあげられている。これは個人の特徴かもしれないが、京都独特の生活感覚や地域特性、物品への意識といった枠組みでとらえ、著作等で確認できるかもしれない、と指摘されている。加えて伝統的な物品と現代的な電化製品が入り混じっていたことがあげられる。生活の近代化や現代化を具体的な資料に立脚しての検討が可能と期待されている[14]。