永禄2年(1559年)北原家中の騒乱の際に隆屋は島津氏を頼り島津義弘に謁見、隆屋は大河平の旧領をそのまま与えられる。永禄5年(1562年)隆屋が病没すると、その隙に乗じて伊東義祐が450人の兵で大河平城を攻めた。しかし後を継いだ嫡孫の隆利(隆屋の嫡男・隆充の嫡子)はこれを守る。義弘はこの働きに鍋・灰塚・榎田の地、計2,000石を与えた。
その後、隆利は大河平城の西方に今城を築き自前の兵と島津からの派遣兵300人と共に入るが、永禄6年(1563年)1月に隆利も病没する。その後を隆利の弟の隆次が継ぐが、飯野城に住まう主君・北原兼親との関係が些細なことから不和となる。兼親は義弘に「飯野城と今城は余り遠くないため、すぐさま今城を救援できるので今城の守兵は撤収した方がよい」と進言したため、今城の派遣兵は撤収してしまう。伊東義祐はこれを聞き及び、永禄7年(1564年)5月に今城を攻撃する。隆次は叔父の大河平隆堅や同じ菊池氏庶流の八重尾氏などと共に奮戦するも、城兵130余人全員が討ち死にする。
その後、兼親では真幸院は守れないとの理由で、飯野城には島津義弘が入るが、永禄11年(1568年)に伊東氏が相良氏と共に、菱刈氏の大口城攻略中で義弘不在の飯野城を攻略しようと計画しているのが発覚。それを義弘に知らせたのが球磨皆越の地頭・皆越六郎左衛門の妻であり、その妻は隆次の姉のナミであったことから、六郎左衛門に大河平氏を継がせて、名も大河平隆俊と改めさせ大河平氏の旧領を与えた。
なお、今城が落城した際に6歳だった隆堅の子・隆重は家人に救いだされていたため、隆俊の養子となり大河平家を継いだ(但し『本藩人物誌』は隆堅の孫の隆商が養子となったとし、後述の系図もそれに準拠する)。
1877年(明治10年)に西南戦争が起こると、大河平の士族は西郷隆盛の薩軍に参加、14代隆芳の嫡子鷹丸もこれに加わったが、戦傷により帰郷し大河平の別邸(本邸は鹿児島)に妻子と共に在った。そこへ、小林に本営を置いた薩軍より、官軍が大河平にまで侵入すれば不利となるため、大河平の村々を焼くよう鷹丸へ指示が下る。鷹丸はこれに応じ、5月4日の夜半に60余村を焼亡させた。
ところが、飯野越えを守備していた大河平臣下の川野通貫・清藤泰助らはこれを聞いておらず、6月13日の敗戦の折に大河平へ戻ると、灰燼と化した村々に驚愕し鷹丸らを追いかけて襲撃、鷹丸らは鍋倉の親戚の家へと逃れる。二日後、その鷹丸の元へ鷹丸の妻子がやってくると、川野らは鷹丸とその妻子ならびに従者の悉くを刺殺した(うち、鷹丸の次女と三女、及びセツという従者の三名は無事に逃れる)。
鹿児島の本邸でこれを聞き知った隆芳は鷹丸の仇討ちと称して、また、川野らが6月17日に官軍に投降していたことから薩軍は大河平士族の官軍への内通を疑い、大河平士族の拿捕を敢行した。また、士族の妻子も捕えられ、宮崎へ送られるとそこで処断された。
西南戦争終結後、隆芳は鷹丸を殺害した者達を告訴、密かに逃亡していた川野を除く全員が逮捕されたが、清藤は収監中に脱獄した。1879年(明治12年)、首謀者二人を欠いたまま下された判決は懲役1年というもので、隆芳はこれを不服として上告、また私財を投じて川野と清藤の捜索を行った。うち、川野は高鍋の山中に潜んでいるところを発見され引き渡される。そして1881年(明治14年)、川野には三度の裁判の末に死刑が宣告された。