大菅中養父
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宝永7年(1710年)、彦根藩印具氏家老の家に生まれる。契沖の歌論を好み、賀茂真淵に師事して古典を学んだ[2]。中年の頃、時流に従い荻生徂徠の古文辞学も学びながらも、日本の古典の研究を続けた[2]。
晩年研究成果を著書に纏めることを志したが、安永5年(1776年)春病に罹り、「もう終わりだ。我が著作の志は遂げられない。造物者が自分を休息させようとしているのか。かの皐如たる者が欲しい。」と子や弟子に告げて[3]、城南安楽寺山に寿蔵を作らせ、中養父自ら詩を刻んだ[2]。辞世は「三栗の中養父大人が奥都城はいづらと問はゞこゝと答へよ」[4]。安永7年(1778年)1月4日死去。墓所は青波村江東庵[4](彦根市芹川町江東寺か)。跡は婿養子の大菅南坡が継いだ。