父が朝鮮銀行に務めていたため、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市で誕生した[4]。父の転勤に伴い、中国の大連を経て福岡県に転居した[2]。
大陸育ちのために、地方の狭さを感じて上京し、1931年(昭和6年)に東京女子大学高等学部を卒業した[2]。就職口が無く、英文タイプや速記などの資格を得、日本国外から日本を訪れた人々に日本語を教えたりしていた[4]。
1935年(昭和10年)に、父の親友である緒方竹虎の紹介で、父と共に民俗学者の柳田国男氏を訪ねた。柳田の説く民俗学の重要性に惹かれ、秘書的な存在としての仕事を2年間勤め[2]、柳田邸で行われた月例研究会「木曜会」に出席した[4]。
1937年(昭和12年)に、母子愛育会(児童と母性の保健と福祉の増進する団体)に就職し、産育習俗の調査や育児誌「愛育」の発行に携わった[2]。女性民俗学研究会の発足にも加わった[7]。この時代の経験を通じ、出産や子育て、子供を人並みにして世間へ送り出すことを意味する「児やらい」が、生涯を通じての民俗学のテーマとなった[2]。
28歳のとき、木曜会を通じて知り合った大藤時彦と結婚して[4]、退職し[2]、長男の出産後に神奈川県鎌倉市浄妙寺に転居した[2]。三児に恵まれ、家事と育児に追われ、一時は民俗学から遠ざかった[4]。しかし、女性としての出産や子育てを通じての民俗学に開眼したことで、家事や育児の合間に執筆し、処女作『児やらひ』を出版した。この書は民俗学の古典的名著となり、女性の民俗学研究者への大きな貢献となった[4][8]。
戦中は鳥取県青谷町へ疎開。敗戦後は鎌倉に戻り、地域活動に積極的に参加し、その中にも民俗学のテーマを求めながら研究を続けた[4][7]。
1952年(昭和27年)、子育てが一段落したことを機に、東京の成城の柳田邸で行われていた女性民俗学研究会「女の会」の例会に参加し始めた。やがて女性民俗学研究のリーダー格として、移住先である鎌倉を中心に、神奈川県内外での民俗学の調査、研究発表、講演、専門誌や雑誌への執筆に取り組んだ[4]。
1961年(昭和36年)には、『神奈川県の歴史 県下の民俗編 上』で、県下の俗信などの執筆に携わった[2]。1968年(昭和43年)に『神奈川県民俗調査』(神奈川県立歴史博物館)で産育と葬制の担当として、調査のために県内各地へ足を運んだ[2]。
1985年(昭和60年)より女性民俗学研究会代表、相模民俗学理事などを歴任、後に日本民俗学会名誉会員も務めた[4]。
2001年11月1日、鎌倉市内の病院で、心不全により満91歳で死去した[3]。
生前に、肉親以外の親戚や知人が仮親となり、多くの人々が子供の育成に関わったことを「複眼の教育」と命名し、核家族化の進んだ時代こそ、こうした子育ての知恵が必要と主張しており、この教育論に共感した多くの人々が、鎌倉で地域子育てグループ「鎌倉てらこや」として、没後も活動を続けている[2]。
民俗学者としての著書の代表作は『鎌倉の民俗』『子どもの四季』『子どもの民俗学』など[2]。また歌人でもあり、歌集に『五月の朝』などがある[4]。