Wikiwand AI

奉安殿

戦前の日本において、天皇皇后の写真と教育勅語を納めていた建物 From Wikipedia, the free encyclopedia

奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前・戦中の日本学校に設置されていた、天皇皇后(明治天皇昭憲皇太后大正天皇貞明皇后昭和天皇香淳皇后)の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建造物である。

現存する奉安殿(茨城県桜川市
かつて真壁小学校にあったもので、現在は旧真壁駅付近に移築されている。ギリシャ建築アーカンサス文様)の石造りを採用したものである。

独立した建造物ではなく、金庫として校舎内に設置されていた事例もあり、その場合は金庫式奉安庫とも呼ばれる[1][2][3]

戦前の公文書では奉安所と呼称されていたが[4]神社のような外観であったために奉安殿と呼ばれるようになったのではないか、と法学者の水島朝穂は推測している[5]。ただし、文部省が1937年(小野による推定)に策定した「御真影奉護ニ関スル心得」により、奉安殿を設置する場合には神殿型が奨励されてこそいたが[4]、後述するように実際の意匠は様々であり、神社建築風のものに限らなかった[6]

一般社団法人北海道建築士会北広島支部長の関川修司が2013年に寄稿した記事によれば、校舎から独立した建造物としては、北海道内で36棟、道外に136棟、国外に16棟が現存しているとされている[6][注釈 1]

第二次世界大戦後、秋田県では「平和塔」と改名し、存続した事例がある[7]滋賀県犬上郡多賀町にある真如寺にも「平和塔」と呼ばれている奉安殿が現存するが、こちらは多賀国民学校から移築され、戦没者を慰霊するための慰霊塔として転用されている[8]

歴史

奉安殿(台湾台南市新化区
かつて新化尋常小学校にあったもの。

学校への御真影の下付は、1874年5月の開成学校への下付にまで遡ることができるが、当時はその学校が官立であることを示すためのものであった。1887年9月に沖縄県尋常師範学校への下付が許可されてから府県立学校への御真影の下付が始まり、1889年12月に文部省が発した通牒により公立高等小学校も下付対象となった。その後、教育勅語が発布される直前の1890年10月4日付で宮内省が公立尋常小学校、幼稚園に御真影の複写を奉掲する許可を与えたことを経て、御真影の下付対象となる範囲は拡大されてゆき、1918年までにほとんどの学校が下付対象となった[9]。また、学校の宿日直制も御真影および教育勅語謄本の奉護を目的として始められた面がある[10][11]三重県三重郡朝日町朝日尋常高等小学校では、当直勤務規定により、災害発生時は身の危険を顧みず御真影および教育勅語謄本を奉遷することが求められ、当直日誌には担当職員の氏名や日付、天気とともに「奉安庫ノ模様」の記載が義務付けられていたという記録が残っている[12]

当初は校舎内で御真影を奉護することが原則とされていたが、火災や地震などによる被害を防ぐため、1910年代から学校敷地内の校舎から離れた場所に奉安殿を設置し、そこで御真影および教育勅語謄本を奉護する事例が増えていった。このころは県によって奉安殿の設置に対する方針が分かれており、山形県では、1915年5月に知事が郡市長会の中で奉安殿の設置を奨励する発言をしていた一方で、長野県では、同年11月に郡長宛に発した通牒「学乙発第一〇一号」により、原則として校舎内に奉置するように指示していた。また、大分県では1919年11月27日付の内務部長通牒「学第五九一四号ノー」により、御真影の下付申請を受理する条件として、奉安殿の設置を義務付けた。1920年代に入ると、校舎火災の発生や関東大震災を契機として、奉安殿の設置を推奨する動きが現れ始めた[13]。その後、文部省が1937年(小野による推定)に策定した「御真影奉護ニ関スル心得」で神殿型の奉安殿による奉護を奨励してから、奉安殿による奉護形態が全国的に普及していった[4][10]

四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉ることと教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められ[2]宮城遥拝も行われた[14][15]。滋賀県犬上郡多賀町立多賀国民学校では、教育勅語が奉読された後、在郷軍人とともに多賀大社を参拝し、明治天皇による御製を詠じていたという証言がある[8]

当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。しかしこの奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、また、実際に関東大震災や校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の話がいくつか美談として伝えられている[13][16][17]。このため、さらに万全を期して校舎内部の奉安所は金庫式奉安庫に改められ、また、校舎から独立した建造物として奉安殿の建築が進められた[4]。前者の金庫式奉安庫は鉄筋コンクリート造の校舎が普及していた都市部に多く見られた[1]

太平洋戦争末期には、空襲が激しくなったことにより御真影の疎開も行われ、疎開先の奉安殿に移された[4][18]早稲田大学では、疎開先で奉安殿の建設を行った記録が残っている[19]

特徴

建造物としては様々なバリエーションが存在し、コンクリート造によるギリシャ建築風のものがあれば[20]、レンガ造りによる洋風建築のもの[21]、石造[8][22]、コンクリート造、木造による神社建築風のものもあり[23][24][25]、その意匠、構造体ともに様々であった[6]。小形ながら頑丈な耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬよう荘厳重厚なデザインとした。1933年には奉安殿の建築デザインに関するコンペも開かれている[要出典]。ただし、このような頑丈な小建築は「湿気がこもる」という短所を持っていた。

小野の論文によれば、文部省が策定した「御真影奉護ニ関スル心得」では、奉安殿を設置する場合には、湿気が少なく風致に富んでいること、火災発生時に延焼の恐れがない空地であること、日当たりや風通しが良いこと、地盤が緩い場所や湿地、崖際などを避けることが注意事項として挙げられ、木造建築に隣接する場合は不燃性の建材を使用し、塁を築くことなどが指示されていた。校舎内に奉安所を設置する場合には、校長室などのように不敬にならず、緊急時に奉遷しやすい場所を選び、火気、換気に気を付けることが注意事項として挙げられ、奉安庫が奨励されたうえでコンクリート台の上に設置するように指示されていた。また、策定後の具体的な指示として、日本建築の特徴を生かした設計にすること、木造の奉安殿を設置する場合には既存の建物から十分な距離をおいて設置することなどが注意事項として挙げられていたとされている[4]。一方で関川が寄稿した記事によれば、奉安殿の設置場所に関する指示はこれとは異なり、校舎外に奉安殿を設置する場合であっても、校長室などに近い場所を選ぶように指示されていたとされている。また、同記事では、奉安殿の設計として、内寸は最小で奥行85cm、高さ1.5m、幅1.2mは必要であり、鉄筋コンクリート造にするときは、壁厚25cm以上、片開または両開の完全な金庫式二重扉を設け、耐震耐火構造とし、内外防熱防湿のために石綿材料を施し、内部はさらにキリまたはヒノキ板張りとし、御真影を奉安する棚の高さは50cmほどのところに設けることが求められたとされている[6]

戦後

サハリン州郷土博物館に移築された奉安殿

日本の敗戦後の1945年12月15日GHQ神道指令により、奉安殿の廃止が決定された。同月22日、文部省次官名による実施要領の発令があり、鳥取県では、1946年6月29日付で文部省が発した「発学二五〇号 御真影奉安殿の撤去について」により、管下の学校にあった奉安殿を撤去したという記録が残されている[23][26]

しかし、中央からの指示は「撤去」であるとして、移設や小学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が、21世紀の現在でもなお全国各地に存在している。使用用途としては、神社の拝殿や公民館の倉庫、納骨堂などに転用されている事例があり[3][23][27][28]、民家の敷地内や寺の境内に移築されたものもある[25][29][30]福岡県内では、戦没者を慰霊するための慰霊塔として使用されている事例が確認されている[22]。東京都内では、目黒区目黒本町にある清水稲荷神社、大田区東雪谷にある長慶寺の境内にある朝日稲荷が奉安殿を転用した神社として知られる[1][3][5]。また、沖縄県沖縄市知花の美里尋常高等小学校跡地にある奉安殿はほぼ完全な状態で現存し[31]、戦争遺跡として市指定文化財(1997年2月5日指定)になっている[32][33]。この奉安殿自体は1935年前後に建設されたと推定されているが、沖縄戦による銃弾の痕跡を残すため、1945年の終戦時を保存整備の時代設定としている[34]。そのほか、関西学院大学のように戦前に建築された古い校舎を持つ学校では、校舎内に設けられた奉安庫が残されている所もある[35][36]。沖縄県石垣市立登野城小学校の敷地内には、現在も鉄筋コンクリート造の奉安殿が残され、県内で唯一学校敷地内に現存する奉安殿として市指定文化財(2008年11月4日指定)になっている[37]。現ロシア連邦領である旧南樺太では、GHQによる神道指令の範囲外であったため、各地に奉安殿が残存しているほか[38]敷香町にあった奉安殿がサハリン州郷土博物館の前庭に移築されている[6][39]

研究・復元など

旧一宮小学校の奉安殿

2016年、地域の講組織の修行の場「行屋」から旧一宮小学校(千葉県一宮町)の奉安殿が再発見された。明治時代の中頃に造られたもので、昭和期の大型建築物然としたものではなく小型のお宮に近い。貴重な歴史的資料として国立歴史民俗博物館佐倉市)に運び出され調査研究の対象となった[40]

旧大鋸屋小学校体育館の奉安殿

1929年に完成した旧大鋸屋小学校(富山県南砺市)の奉安殿は、木造体育館に組み込まれた構造で建設され、戦後も破壊(利用)されることなく閉鎖されたままになっていた。体育館自体は1966年の閉校後に製材工場として利用され、1990年からは市が所有する大鋸屋軽スポーツセンターとして活用されている[41][42][43]。また、希少な戦前の木造学校建築(1929年築)でもあり、2015年には国の登録有形文化財に選ばれている[44]

2010年代後半、地元の地域づくり協議会が歴史を後世に伝えようと奉安殿の復元に取り組むとともに、宮内庁から譲り受けたネガから昭和天皇香淳皇后の写真を用意し、2019年7月13日、地域関係者に披露された[42][43]。現在は、事前に大鋸屋地域づくり協議会に連絡すれば見学できるようになっている[45]

脚注

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks