奉斗玩
From Wikipedia, the free encyclopedia
日本統治時代の黄海道遂安郡出身。1946年10月に一家5人が父の引率で延白、開城を経てソウルに逃げた[2]。景福高等学校、延世大学校英文科卒、アメリカン大学新聞放送学大学院修学[1]。
韓国日報駐米特派員、中央日報論説委員兼東洋放送論評委員、TBCニュースキャスター、国連総会韓国代表、光云大学校新聞放送学教授、クリーンインターネット国民運動協議会議長、カトリック韓民族支援会長、正しい社会のための市民会議共同代表、大韓赤十字社副総裁、奉斗玩中央協議会議長、らい病患者村の聖ラザロ村支援会長、南北韓障害者支援運動本部顧問を歴任した。政界では民主正義党所属の第11・12代国会議員、民主正義党スポークスマン・党務委員、第11・12代国会外務委員長を歴任した[1][3][4]。
1970年代に一世を風靡した東洋放送のニュースキャスターであったが、1980年代になると新軍部と親しくなり、全斗煥政権を擁護する姿勢を見せるように転向した。特に1983年にABCのインタビューで米国亡命中の金大中と対談した。米国の記者テッド・コッペルから「多くの人が全斗煥政権が軍事独裁政権だと言うのにどう思う?」という質問に対し、「全斗煥政権が独裁かどうか言う前に、私は今国会議員の再選に出て、遊説に夢中で死ぬほど忙しいのだ」「私たちが今いるKBSのスタジオが、北朝鮮共産軍と対峙している休戦線からわずか28マイルしかない。そのような脅威の中で民主主義らしくて民主的手続による2回目の総選挙を行っている」と答えた。また、コッペルは金大中とのインタビューで人権蹂躙に関する質問に対し、金大中は国際アムネスティの資料を引用し、韓国には2800人の政治犯が拘束されていると主張した。これに対し、奉はその数字について確実な資料がないだけでなく、それが全て政治犯かどうかは知るすべがないというふうに答え、「第五共和国が軍事独裁のように見えるかもしれないが、私たちなりの民主政治の形態を備えて最善を尽くしており、国会も選挙を通じて構成した。私たちはまだ南北が対峙中で、アメリカとは違う。私もあなたみたいにアンカーの出身で、放送をした当時も政府の政策を正面から批判し、国民の知る権利のために私もいくつかしゃべっていた」と反論した[3]。
1988年の第13代総選挙では公認から排除されたため、ショックにより手足の麻痺と失語症を患ったが、1989年11月よりMBCラジオの『女性時代』に進行役として復帰した。1994年10月からはKBS第1ラジオで冠番組を持つようになり、1997年に大韓民国で最も影響力のあるジャーナリスト10傑の1人に選定された。また、1992年の第14代総選挙にも龍山選挙区から出馬したが、3万2千票しか得られず、3位で落選した[4]。
