国事御用掛

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国事御用掛(こくじごようがかり)は、江戸時代文久2年12月9日1863年1月28日)、国事を議するため、日本朝廷内に設けられた役職。同日付けで国事御用書記が廃止された。

小御所

幕末尊王攘夷の空気の高まりとともに、幕府側による朝廷人事の介入が廃止され、朝廷が幕府の拘束から脱却していく流れのなかで設置された役職である[1]

内裏の小御所を会議所とし、朝廷への建議・建策を討議した[1]。執務は毎月10日間[1]門閥官位を度外視して有能な廷臣29名が任命され、のちに姉小路公知が加えられた[1]。このうち三条実美と姉小路公知は、長州土佐の軍事力(親兵)を後ろ盾に、この役職の中心となった[1]

翌、文久3年2月、国事参政(4名)と国事寄人(10名)の両職があらたに設置されると、職務がほぼ同じであった国事御用掛の実権は国事参政・国事寄人の両職へ移った[1]。両職の設置に伴い国事御用掛も改補され、橋本実麗・東久世通禧・姉小路公知が国事参政に、三条西季知が国事寄人に異動した[2]。諸藩士らの推挙により、尊攘派の廷臣が多くを占めた参政・寄人の両職は、京都学習院を拠点に尊攘激派(おもに長州藩)の志士・浪人らと交わり、攘夷親征の実行(大和行幸の詔)を画策したため、同年8月18日の政変で役職ごと廃された[3]。また、御用掛・参政・寄人の諸員らについても、三条実美以下13名に対し、参内および他行他人面会の禁止が申し渡された[4]

その後も国事御用掛は、人事の改補を重ねつつ存続し、慶応3年12月9日(1868年1月3日王政復古の大号令により、摂政・関白・征夷大将軍などの官職および議奏武家伝奏などの役職とともに廃止された[5]

当初の就任者

脚注

参考文献

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