姚賈
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謀臣姚賈
代々門番を務める家柄の出身であり、当時の社会では低い身分だった。韓非の言によると魏では悪名高い盗賊として知られていた[2]。
初めは趙の孝成王に仕え、使者として韓と魏に赴き、盟約を結んだ。韓と魏は姚賈を厚遇し、孝成王がこれに疑念を抱くと、趙の舉茅という人物が、「韓や魏は姚賈を迎え入れたいと考えており、それゆえに友として遇しているのです。王が姚賈を追放なさるなら、それは韓と魏の望むところであり、王の忠臣が罪を背負うことになります」と諌言した[3][4]。しかし、結局は趙を追放されたと思われる[2]。
のちに秦に入り、秦王政に仕えた。あるとき、四国[5]が合従し、秦を攻めようと画策したため、秦王政は群臣・賓客60人を召集して対応策を講じた。誰も答えを見出せない中、姚賈が「私が四国に使者として赴き、同盟を断ち、出兵を阻止しましょう」と名乗りを上げた。
姚賈は秦王政から外交資財として車百両と金千斤を与えられた。冠と王の衣を授けられ、壮行の酒宴で王の剣で剣舞を行った後、出発した。結果、合従の阻止に成功し、四国と友好関係を結んで帰還した。秦王政は大いに喜び、姚賈を千戸に封じて上卿とした[1][6]。
韓非を害す
当時、秦には韓非が韓の使者として滞在していた。韓非は秦王政に、「姚賈は財宝を携えて、3年にわたって四国に遣わされましたが、四国との関係は必ずしも良好とは言えず、財宝は内々に使い尽くしました。王の権力と国の宝を用いて、独自に諸侯と関係を持ったのです。そもそも姚賈は門番の家系の子にすぎず、魏の悪名高い盗賊であり、趙を追放された人物です。このような者を国の大計に関わらせるのは他の群臣たちの士気を下げることになります」と讒言とも取れる忠言をした。
秦王政から問い質された姚賈はこれを認めた上で、忠孝として名高い曾参と伍子胥を引き合いに出して「私は秦王に忠義を尽くしているからこそ四国の王から重用されたのです」と弁明した。また、讒言を信じたためについには国を滅ぼした桀と紂を挙げて、讒言を聞き入れる事の危険性を指摘した。
次に秦王政は姚賈の過去について問い詰めると、姚賈は「太公望、管仲、百里奚、文公はいずれも恥辱と悪評を受けていましたが、名君のもとで共に大功を立てました。清廉な者のみを任用していては大業を成すことはできません。名君とは、外からの誹りは聞き入れず、己のために役立つかどうかを見極め、天下で高名であっても実際の功績がなければ褒賞を与えないものです。これによって群臣は空虚な名声だけで上に取り入ろうとは思わなくなるのです」と主張した。
秦王政は「然り」と納得し、引き続き姚賈を重用した[1][6]。
その後、姚賈は李斯と共謀し、「韓非は韓の公子であり、終始、秦のためではなく韓のために尽くすでしょう。これが人の情というものです。長く留めておいて帰せば、自ら禍根を残すことになります。法を逸脱してでも処刑すべきです」と秦王政に讒訴した。秦王政はこれを正しいと認め、官吏に命じて韓非を処罰させた。李斯は人を遣って韓非に毒薬を送り、自殺するよう仕向けた。秦王政は後になって後悔し、韓非の赦免を命じたが、韓非は既に亡くなっていた[7][8]。
参考文献
脚注
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戰國策卷七 秦五 (中国語), 戰國策/卷07#四國為一將以攻秦, ウィキソースより閲覧。 四国為一将以攻秦の項 - 1 2
戰國策卷七 秦五 (中国語), 戰國策/卷07#四國為一將以攻秦, ウィキソースより閲覧。 四国為一将以攻秦の項 曰:「賈以珍珠重寶,南使荊、吳,北使燕、代之間三年,四國之交未必合也,而珍珠重寶盡於內。是賈以王之權,國之寶,外自交於諸侯,願王察之。且梁監門子,嘗盜於梁,臣於趙而逐。取世監門子,梁之大盜,趙之逐臣,與同知社稷之計,非所以厲群臣也。」 - ↑
戰國策卷二十一 趙四 (中国語), 戰國策/卷21#趙使姚賈約韓魏, ウィキソースより閲覧。 趙使姚賈約韓魏の項 - ↑ 和訳戦国策 巻第六下303頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ↑ 姚宏は楚・趙・燕・呉とし、鮑彪は楚・斉・燕・代とする。歴史学者の楊寛はこれらを誤りとし、著書『戦国史料編年輯証』で楚・趙・燕・魏であると主張する。
- 1 2 和訳戦国策 巻第三下 秦下128-131頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ↑
史記卷六十三 老子韓非列傳 第三 (中国語), 史記/卷063#韓非, ウィキソースより閲覧。 韓非の項 - ↑ 和訳史記列伝 第三 老荘申韓列伝20頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション