姜師度
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明経に及第し、青山県尉に任じられた。龍岡県令に進んだ。神龍元年(705年)、易州刺史に累進し、御史中丞を兼ね、河北道観察兼支度営田使をつとめた。神龍3年(707年)、滄州刺史に転じ、漁陽県の北に溝を掘り、奚や契丹の侵攻に備えた。また曹操のころの旧渠を整理して、沿海に水運路を掘り、平虜渠と呼ばれた。ほどなく銀青光禄大夫の位を加えられ、大理寺卿に累進した。景雲2年(711年)、司農寺卿に転じた[2][3]。
開元4年(716年)、師度は陝州刺史として出向した。陝州の西の太原倉は洛陽と長安のあいだの水陸運送の中継点であったが、倉から米を車に載せて河沿いに運び、その後に舟に積み込んでいた。師度は地に道を掘って、上から米を注ぐようにしたので、水運への切り替えが省力化された。のちに太子詹事に任じられた。玄宗が営州の州治を柳城県に移転すると、師度は営田支度修築使に任じられた。開元6年(718年)、蒲州が河中府となると、師度は河中尹となり、現地の府寺を修繕させた[2][4]。
先だって安邑県の塩池が枯渇しようとしていたため、師度は兵を動員して開拓し、水道を引き、塩屯を置いて、利益を上げた。開元7年(719年)、二度異動して同州刺史となった。朝邑県と河西県の境に古通霊陂を整備し、雒水の水を引き、黄河をせき止めて灌漑し、2000頃あまりの水田を開いた。金紫光禄大夫の位を加えられ、ほどなく将作監大匠に転じた[2][4]。
左拾遺の劉彤の提案により、師度は強循や諸道の按察使とともに天下の塩鉄の賦課を調査することとされたが、反対意見が多く実施されなかった。開元11年(723年)、師度は病没した。享年は七十数歳。当時の人に「傅孝忠は両眼で天を見るが、姜師度は一心に地を穿つ」と並び称された[5][4]。