子供之友
日本の雑誌
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沿革
『婦人之友』の系列誌として1914年(大正3年)4月に創刊する[1]。創刊号はA5判の38ページで北澤楽天が表紙絵を担当した[1]。創刊の告知は前年(1913年(大正2年)から『婦人之友』の誌面で行われており、同誌の読者から子供のための雑誌を出版してほしいとの声が届いたことを創刊のきっかけに挙げている[1]。
1916年(大正5年)から観音開き構造にしたページを設けるなど、仕掛け絵本の要素を持つようになり、1923年(大正12年)以降は判型をB5判に大判化して誌面上のグラフィック表現が強化されていく[2]。1930年(昭和5年)には読者組織「甲子上太郎会」が発足、生活改善運動との結びつきを強めながら販路を拡げていく[2] [3]。
1941年(昭和16年)に戦時下における出版用紙統制により判型がA5判に縮小、1943年(昭和18年)12月号をもって刊行が止まる[2]。
誌面
1914年(大正3年)4月の創刊号は、河井醉茗が編集主任、北澤楽天が表紙絵を担当するとともに漫画を寄稿、また、竹久夢二が読み物の挿絵を寄せている[1]。先行する幼年雑誌では無記名作品が多い中、同誌では読み物・挿絵ともに著者名を明記する方針を採り、童話作家・童画家が職業として成立することに貢献した[4]。創刊から終刊までの主な編集者・寄稿者として、北澤楽天、河井醉茗、竹久夢二のほか、岡本帰一、深沢紅子、小川未明、北原白秋などがいる[4]。
各号には、童話、漫画、科学読み物やクイズのほか、「甲子上太郎」が掲載された[1]。「甲子上太郎」は、甲子・乙子・丙子、上太郎・中太郎・下太郎の6人の子供が登場する絵物語であり、同誌の代名詞ともなる[5]。これが発展する形で1930年(昭和5年)に読者組織「甲子上太郎会」が発足し、朝鮮半島や満洲にまで活動が広がっていく[3]。
各記事は、幼児教育を念頭に置いて執筆され、中産階級・インテリ層の家庭で好まれた[6]。シェイクスピアやファーブルなどの日本国外の偉人も取り上げて紹介したほか、朝鮮半島や台湾の民話に関する連載もあった[6]。
