孟漢瓊

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孟 漢瓊(もう かんけい、生年不詳 - 934年)は、五代十国時代宦官

はじめ成徳軍節度使の王鎔に仕える宦官となった。李嗣源が成徳軍節度使となると、漢瓊はその側近に仕えた。天成元年(926年)、後唐の明宗(李嗣源)が即位すると、漢瓊は諸司使を歴任した[1]長興2年(931年)、右衛大将軍・知内侍省事・宣徽北院使となった[2]。漢瓊は聡明機敏で、離間を得意とした。王淑妃の支持を得て、秦王李従栄に仕えた[1]

長興4年(933年)、朱弘昭馮贇が国政を掌握すると、漢瓊はかれらと手を結んだ。李従栄が兵を率いて天津橋にいたると、漢瓊は朱弘昭・馮贇・康義誠と内庭で会議したが、謀議が決しなかったので、漢瓊はひとり出て、先に殿門に入り、明宗に上奏した。漢瓊は禁軍を召集し、李従栄を殺害した。翌日、漢瓊は明宗の命により馬に乗って魏州に向かい、宋王李従厚を呼び出した。閔帝(李従厚)が即位すると、漢瓊は開府儀同三司・驃騎大将軍を加えられた[3]

応順元年(934年)、潞王李従珂が起兵すると、閔帝は漢瓊を召し出して、先に魏州に入らせようとしたが、漢瓊は隠れて行かなかった。李従珂が陝州に到達すると、漢瓊は李従珂に旧恩があったことから、澠池県で李従珂に面会した。従臣の列に加えられたが、ほどなく道路の左で殺害された[4]

脚注

伝記資料

参考文献

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