康義誠
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若くして騎射により李克用に仕えた。天祐12年(915年)、晋王李存勗に従って魏州に入り、突騎使に任じられた。のちに突騎都指揮使に累進した。同光4年(926年)、李嗣源に従って鄴都の変を討った。反乱軍が李嗣源に皇帝として立つよう迫ると、李嗣源はこれを拒んだが、義誠は荘宗(李存勗)が戦士の労苦を無視して酒色に溺れており、節を守ると死ぬことになるといって受けるよう勧めた。李嗣源は義誠の言を聞き入れ、義誠を腹心とした[1][2]。
天成元年(同年)、明宗(李嗣源)が即位すると、義誠は検校司空を加えられ、突騎都指揮使のまま、富州刺史を遥領した。ほどなく奉聖軍指揮使に転じ、邠州刺史となった。天成2年(927年)、明宗が開封府に行幸し、朱守殷を平定すると、義誠は随駕馬軍都指揮使に転じ、江西節度使を遥領した。天成3年(928年)、明宗が洛陽に帰ると、義誠は侍衛親軍馬歩軍都指揮使に任じられた[1][2]。天成4年(929年)、河陽節度使に転じた[3]。長興元年(930年)、山南東道節度使となり、検校太傅を加えられた[4]。長興3年(932年)、再び河陽節度使となった[5]。長興4年(933年)、同平章事を加えられた[1][2]。
秦王李従栄が天下兵馬元帥となると、大臣たちはみな恐れて外任を求めた。義誠は明宗の寵遇を受けていたため、解任されることなく、その子を李従栄に仕えさせて自ら近づいた。明宗が病床に伏せると、李従栄は義誠の助けを求め、義誠はその意を聞き入れたが、本心ではなかった。朱弘昭・馮贇らが災いを恐れて、義誠に協力を求めると、義誠は態度をはっきりさせなかった。李従栄が起兵して敗死すると、義誠は三司使の孫岳を召し出して李従栄の遺産を調べさせることにした。孫岳がやってくると、義誠は乱に乗じて孫岳を射殺した。病床の明宗はもはや咎めることもできなかった[1][2]。
応順元年(934年)、閔帝が即位すると、義誠は検校太尉を加えられ、侍中を兼ね、判六軍諸衛事をつとめた。ほどなく鳳翔府で潞王李従珂が起兵し、討伐軍が敗れると、義誠は閔帝麾下の諸軍こぞって李従珂に降伏し、李従珂からの免罪を得ようとした。しかし朱洪実の反対を受け、閔帝の態度もはっきりしなかった。義誠は軍を率いて新安県にいたり、武装解除して李従珂に降った。清泰元年(同年)4月、義誠は興教門の外で斬られ、その一族も皆殺しにされた[6][7]。天福12年(947年)、後漢の高祖が即位すると、義誠は中書令の位を追贈された。