朱弘昭
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李嗣源に仕え、典客をつとめた。天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、弘昭は文思使となった。董璋が剣南東川節度使となると、弘昭はその下で剣南東川節度副使をつとめた。剣南西川節度使の孟知祥が監軍の李厳を殺害すると、弘昭は恐れて洛陽への召還を求めたが、董璋が許さなかった。天成2年(927年)、弘昭は入朝して左衛大将軍に任じられ、内客省使をつとめた。天成3年(928年)、宣徽南院使に転じた。明宗が南郊で郊祀をおこなうと、弘昭は大内留守をつとめ、検校太傅を加えられた[1][2]。
長興元年(930年)、弘昭は鳳翔節度使として出向した[3]。ときに朝廷が石敬瑭に命じて孟知祥を討たせたが成功せず、安重誨が督軍として派遣された。安重誨が鳳翔府に立ち寄ると、弘昭は丁重にかれを迎えた。弘昭は安重誨が軍を自滅させるだろうとの予見をひそかに石敬瑭に書き送った。石敬瑭はこれを聞いてその日のうちに陣営を焼き払って逃げ帰った。安重誨は西征を取りやめて引き返し、また鳳翔府に立ち寄ったが、弘昭は迎え入れなかった。長興2年(931年)、安重誨が殺害されると、弘昭は入朝し、左武衛上将軍に任じられ、宣徽南院使をつとめた。長興3年(932年)、康義誠に代わって山南東道節度使となった。長興4年(933年)、秦王李従栄が元帥となると、たびたび悪言を発したため、執政の大臣も恐れて、かれを忌避していた。枢密使の范延光や趙延寿は李従栄を排斥するよう求めたが、明宗は聞き入れなかった。ほどなく趙延寿が汴州に出向すると、弘昭は襄州から召し出され、代わって枢密使となり、同中書門下平章事を加えられた。10月、范延光が鎮州に出向すると、弘昭は三司使の馮贇とともに国政の中枢を掌握し、康義誠や孟漢瓊と謀って李従栄を殺害した[4][5]。
応順元年(934年)、閔帝が即位すると、弘昭は宰相の筆頭として中書令を加えられた。閔帝政権は潞王李従珂と対立した。3月、李従珂が起兵して陝州にいたると、閔帝は洛陽を捨てて逃走を図り、弘昭に後事を任せた。弘昭は井戸に身を投げて自殺した。安従進が弘昭の首級を陝州に伝えた。天福12年(947年)、後漢の高祖が即位すると、弘昭は尚書令の位を追贈された[6][7]。
家族
- 祖父:朱玟(太原府牙将)
- 父:朱叔宗(太原府牙将)[1]