孫処約

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孫 処約(そん しょやく、603年 - 671年)は、唐代官僚政治家は茂道[1]本貫汝州郟城県[2]

軽車都尉の孫子起の子として生まれた[3]貞観元年(627年)、校書郎に任じられ、北斉北周の五代史の編纂にあたった[4]。斉王李祐の下で記室となった。李祐は行状が悪かったため、処約はたびたび上書して李祐を諫めた。貞観17年(643年)、李祐が殺害されると、太宗は自ら斉王家の書状を調べ、処約の諫書を手に入れると、これに感嘆した[2][5]永徽元年(650年)、処約は射策甲科に及第し、著作佐郎に任じられた。礼部員外郎となり、考功員外郎に転じ、弘文館学士をつとめた。騎都尉となり、考功郎中をつとめた。給事中・中書舎人に累進した[4]知制誥となり、『太宗実録』の編纂に参与した。顕慶3年(658年)、朝散大夫・弘文館学士を加えられた。三度異動して中書侍郎となった[2]麟徳元年(664年)、西台侍郎・同東西台三品(宰相)となった。麟徳2年(665年)、知政事(宰相)を退任し[6][7]、司礼少掌伯(礼部侍郎)に降格された。乾封2年(667年)、少司成(国子監司業)に任じられた。咸亨元年(670年)、老病のため致仕を請願し、許可された。咸亨2年(671年)、高宗に従って東都洛陽に赴いた。5月4日、死去した。享年は69[4]

子の孫佺は、睿宗のときに左羽林軍大将軍となり、契丹を征討して戦没した[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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