孫岳 (後唐)
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才能にすぐれて任用され、府衛の右職を歴任した[1]。後唐の天成元年(926年)、鄴都副留守から潁州刺史に任じられた[2]。検校太保を加えられた[3]。天成2年(927年)、耀州刺史に転じた[4]。天成3年(928年)、閬州団練使となり[5]、いずれもその統治を称賛された[1]。長興元年(930年)、武興軍節度使に転じた[6]。長興2年(931年)、西上閤門使をつとめた[7]。
長興4年(933年)、孫岳は洛陽に帰ると、秦王李従栄に元帥府都押牙として求められた。その人事が行われないうちに、馮贇の推挙により三司使となり、ときの陰謀に参与した。朱弘昭と馮贇は李従栄の放恣専横に悩み、孫岳は李従栄が禍難の端緒となるだろうと遠慮なく述べた。康義誠はこれを聞いて喜ばなかった。李従栄が敗死すると、孫岳は康義誠に召し出されて、ともに河南府にいたり、府蔵を検閲した。康義誠はひそかに騎士を派遣して孫岳を射させ、孫岳は通利坊まで逃走したが、騎士に殺害された[1]。太尉の位を追贈され、斉国公に追封された[8]。
子の孫璉は、諸衛の将軍や辺境の節度副使を歴任した[1]。