孫彦韜

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孫 彦韜(そん げんとう、生没年不詳)は、末から五代十国時代にかけての軍人官僚は徳光。本貫汴州浚儀県[1]

若くして勇気と力量にすぐれ、募兵に応じて従軍した。朱全忠が四鎮の節度使を兼領すると、彦韜は軍中から抜擢されて、諸軍の偏校を歴任した。同光元年(923年)、後唐荘宗が梁軍と黄河で対陣すると、彦韜は後梁の命運が尽きていると察知して、間道を通って黄河を北に渡り、荘宗に帰順した。荘宗に喜んで迎えられ、親従右廂指揮使に任じられた。荘宗が後梁を平定すると、晋州馬歩軍都校として出向し、検校兵部尚書を加えられた。天成元年(926年)、綿州刺史・検校尚書左僕射に転じた。天成2年(927年)、考課が優秀だったことから、検校司空を加えられた。長興から清泰年間にかけて、密州沂州濮州の刺史を歴任し、検校太保まで進み、竭忠建策興復功臣の号を賜った。天福元年(936年)、後晋の高祖石敬瑭が即位すると、彦韜は再び密州刺史に任じられた。ほどなく在任のまま死去した。享年は64[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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