孫漢英

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孫 漢英(そん かんえい、生年不詳 - 951年)は、五代十国時代軍人。名は漢殷[注釈 1]振武軍の出身[1]

孫重進の子として生まれた。若くして軍の隊列に仕え、都将に累進した。東面行営馬歩軍都指揮使となった。後唐清泰元年(934年)、山南西道節度使の張虔釗後蜀に亡命すると、漢英の兄の孫漢韶が武定軍節度使をつとめていたが、孤立してやはり後蜀と結んだ。このため漢英は弟の孫漢筠とともに長らく任用されなかった。後漢乾祐元年(948年)、郭威が西征して河中節度使の李守貞京兆府趙思綰の乱を討つと、漢英は軍中指揮使をつとめた。乾祐2年(949年)、李守貞や趙思綰の乱が鎮圧されると、漢英は凱旋して、隠帝劉承祐により絳州刺史検校司徒に任じられた。後周広順元年(951年)冬、開封府で死去した[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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