孫重進の子として生まれた。若くして軍の隊列に仕え、都将に累進した。東面行営馬歩軍都指揮使となった。後唐の清泰元年(934年)、山南西道節度使の張虔釗が後蜀に亡命すると、漢英の兄の孫漢韶が武定軍節度使をつとめていたが、孤立してやはり後蜀と結んだ。このため漢英は弟の孫漢筠とともに長らく任用されなかった。後漢の乾祐元年(948年)、郭威が西征して河中節度使の李守貞や京兆府の趙思綰の乱を討つと、漢英は軍中指揮使をつとめた。乾祐2年(949年)、李守貞や趙思綰の乱が鎮圧されると、漢英は凱旋して、隠帝劉承祐により絳州刺史・検校司徒に任じられた。後周の広順元年(951年)冬、開封府で死去した。