宇佐美洵
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東京市芝三田小山町に生まれる[2][注釈 1]。市谷小学校に入学して1年後、父の勝夫が富山県知事に就任したことから、一家は富山に越し[3]、2年間をすごした。その後、父が韓国統監府参事官に転任することになったため、父のみが京城に赴任し、母子は東京に戻った。だが、母・よしが急死し、父は母の姉・みつを後添に迎えることになったため、祖父・池田成章に連れられ、みつと子どもたちは朝鮮に渡った[4]。
京城中学校を経て1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業[5]。当時三井銀行の常務をしていた池田成彬伯父より三菱銀行を勧められ、同行の常務をしていた加藤武男叔父に快諾されて入行した[6]。同期50人のうちのなかには、矢野一郎(第一生命社長)、久松定武(政治家)らがいた[7]。
三宮支店を振り出しに[7]、上海、ニューヨーク支店勤務を経て[8]、1936年に帰国。外国為替係が新設される名古屋支店に同係長として着任[9]。1940年には新宿支店長代理を命じられ、急激な発展を遂げる新宿において、他の銀行との預金獲得でしのぎをけずった[10]。三菱銀行が第百銀行と合併したことで支店が増えたため、本店に企画部が新設されると、1943年4月に同部業務課長に就任した[11]。以後、本店勤務に終始することになり、支店長に就くことはなかった[12]。こののち、本店営業部副長、調査部長、総務部長等を歴任[13]。
1950年取締役、1954年常務取締役、1959年副頭取、1961年11月に頭取となる[13]。
常務時代には、近江絹糸争議で資金繰りに困った近江絹糸紡績から、融資の代償に社長の進退に関する白紙委任状を取ったと三菱銀行が見なされ、担当者として国会に呼ばれ、大蔵委員会で責め立てられた[14]。頭取時代には、全国銀行協会会長としても業界を代表して活躍。また佐橋滋をはじめとする通商産業省が制定を目指した特定産業振興臨時措置法案をめぐり、通産省と対立し同法案を流産させたが[15]、これにより一段と宇佐美の声望は高まった。佐橋とは一時、大いに渡り合ったが、この時以来ときどき会っては談笑する仲になったという[16]。
1964年に池田勇人首相は病気のため退陣するが、後継首相となった佐藤栄作に次期日銀総裁を宇佐美にするように申し送った。佐藤は田中角栄大蔵大臣を通して、宇佐美に日銀総裁に就任するように要請し、宇佐美は受諾した。こうして“日銀のプリンス”と称された佐々木直を押し退けた形で、戦後初めての民間銀行出身の総裁が誕生するが、昭和40年不況の折り、取り分け証券業界の落ち込みは激しく、公定歩合を3度にわたって引き下げるなど金融政策の舵取りを取った[17]。
日銀総裁に就任した宇佐美は、民間出身として日銀に新風を吹き込み「法王庁」とまで呼ばれた日銀を開かれた物にしようと努力した。とりわけ金融界、産業界とのパイプ役として評価を高めた。また、インフレ対策にも忙殺された。1969年に任期満了にともない退任。その後金融制度調査会長などを務めた。
家族・親族
父・宇佐美勝夫は、山形県米沢市出身で米沢藩士の家系[2]。母・よしも米沢藩士池田成章の娘である[2]。
よしは、富山から東京に戻った1年後に丹毒のため急死した。このため、父はよしの姉・みつを後妻として迎えたが[4]、1920年1月にみつもスペイン風邪がもとで死去した[18]。母の実兄は三井財閥の大番頭、日銀総裁や大蔵大臣を歴任した池田成彬[2]。母の義弟(母の妹の夫)は三菱銀行元頭取の加藤武男であり[19]、従妹の敏(池田成彬の長女)は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫にあたる元三菱製紙会長・岩崎隆弥に嫁いでいる。また三菱ふそうトラック・バス会長を歴任した宇佐美隆は洵及び毅の甥にあたる。
三つちがいの兄・讓がいたが、九つのとき脳膜炎で死去した[2]。長弟・毅は宮内庁長官、二弟・宏は日本炭酸工業監査役を務めた[13]。三弟・格は、麻布中学在学中に盲腸炎をこじらせて他界した[20]。末弟・新は父にとって3番目の妻のただ一人の子であったが、九州大学から学徒出陣で青森の速射砲中隊にいた時、盲腸炎にかかり、母に看取られながら終戦の翌日に亡くなっている。宇佐美とは20歳余りも歳の違う弟であった[21]。