宇田川文海
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江戸本郷の道具屋の三男として生まれ、11歳で両親を相次いで亡くし、丁稚奉公を経て、養源寺に入門し恵海と名乗る[2]。住職の南明が幕府の政道にも関わっていたことから、1861年に夜道で尊王攘夷派の浪士に襲われて住職は死去、同行していた恵海も顔から胸にかけて斬られ、手術をしたものの、顎に残った大きな傷跡を気にして生涯マスクで隠すようになった[4]。寺から出ずに鬱々と暮らしていたが、徳川家康が腫瘍を気にする二男秀家を一喝した挿話を読んで考えを改め、結城の華蔵寺に転任後は活発に仏道布教にも励んだが、廃仏毀釈で貧窮したため還俗して鳥山捨三を名のり、上京して、大学東校の医学生聴講録の筆写などで糊口をしのぐ[2][4][5]。
長崎で活版印刷技術を習得した兄・茂中貞次が上京し、大学東校内に文部省御用の活版所を開き、文海も印刷工となる[4]。兄の印刷仲間の平野富二が、印刷と新聞発行開始を決めた秋田県庁から印刷と編集のできる人材派遣を依頼され、文海を推薦、26歳で秋田に赴任し、印刷職工長と遐邇新聞主宰を務める[4]。ここでの記者修業から文筆で食べていくことを決心する[5]。
2年後に帰京し、兄が始めた神戸港新聞に入社、大阪に日刊新聞がないことに気づき、兄らと浪花新聞を1875年に創刊、同紙は大阪では2番目、日刊紙としては最初の新聞となった[3]。2代目社長に就任した元鳥取県参事・黒川正治と合わず1877年に退社し、大阪日報に転職、1880年に魁新聞の津田貞に請われて同社に転職するも経営難で解散したため、翌年朝日新聞に転職[5]、一時日本絵入新聞に移るも朝日に戻り、1889年まで在職する[6]。この間、文海が執筆した多くの続き物は人気を集めて劇化もされ、東京朝日でも連載するなど、新聞小説家として名を馳せた[6]。
1889年に「詐欺取財犯」の嫌疑により逮捕され[7]、朝日を解雇される[5]。これは、5年前に免官となった元判事・土居徹の私行を記事にしない代わりに土居から文海が金銭を受けとり、大阪朝日の主筆らに金を渡したものの、結局新聞種となったことから恐喝を疑われたためであった[8][9]。約半月留置されたが、証拠不十分で放免された[5]。
1890年に大阪毎日新聞に入社し、同紙を舞台に続き物を精力的に発表、文海健在と評されたが、次第に戯作風小説の隆盛にも翳りが現れ、1898年の「うらかた」を最後に紙面から姿を消す[6]。1900年には天理教の依頼で機関誌刷新に協力、神戸新聞、大阪商事新聞や雑誌などでの執筆や講演をしたが、急速に過去の人となる[6]。この頃、菅野すがと出会い、中風の父親と弟妹を抱えて困窮する菅野に同情し、新聞記者に育て、大阪毎日の姉妹紙「大阪電報」を紹介して自立を助けた[6]。
家族
- 父・伊勢屋市兵衛 - 江戸本郷新町屋の道具屋。[10][11]
- 兄・茂中貞次(1840-) - 活版印刷技術者。長崎で本木昌造より活版印刷術を学び、1861年にイギリス人ハンサードから英字新聞の印刷術を習う。1870年に、師匠の本木が大阪に開いた「新塾出張活版所」(大阪活版所)に派遣され、翌年には、本木が依頼された大学御用の活版所の開設のため、平野富二、小幡正蔵とともに上京し、弟の文海もともに活版所で働く。鳥取県庁の印刷技師を経たのち、政府の新聞発行奨励策により兵庫県庁が三木善八らに編集させていた「神戸港新聞」の発行を引き継ぎ、続いて「淡路新聞」「浪花新聞」の発行に携わるなど、活版印刷の普及拡大に貢献した。[11]
- 妻・つる(1856-1939) - 堺市戒之町・竹山平八の二女。1884年に結婚。実子はなく養女のみ。[10][5]
- 養女・斎藤ふさ - 画家・斎藤松州の妻。松洲(1870-1934)は大阪堂島に生まれ、京都で修業後、江戸小石川で俳画塾を開き、40歳から25年間にわたり約1200人から贈られた頂き物の食べ物を描き続けた『目食帖』で知られる。鈴木松年門下。晩年の文海を経済的に支えた。[10][12][13]
- 養女・宇田川初 - 頌栄女学校卒業後、同校勤務。[10]
- 大逆事件で死刑になった管野スガは、文海の妾だったことがあると、荒畑寒村の『寒村自伝』に書いたが、のち大谷渡の『管野スガと石上露子』(1989)がこれを否定した。だが堀部功夫は、この否定には何ら根拠がないとして批判し、『宇田川文海に師事した頃の管野須賀子』(日本古書通信社、2019.6)で詳細に両者の関係を調査した。
著作
- 『士族の商業』
- 『勤王佐幕巷説二葉松』
- 『大阪繁昌誌』(長谷川金次郎との共著)
