守屋善兵衛

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死没 (1930-12-10) 1930年12月10日(64歳没)
東京府
職業 実業家
もりや ぜんべえ
守屋 善兵衛
晩年の守屋善兵衛
生誕 (1866-03-11) 1866年3月11日
日本の旗 日本 備中国小田郡大井村(現在の岡山県笠岡市
死没 (1930-12-10) 1930年12月10日(64歳没)
東京府
出身校 独逸学協会学校
職業 実業家
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守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日[1]1866年3月11日) - 昭和5年(1930年12月10日)は、日本の実業家。幼名は、久太[2]。父は、彌作[3]

備中国小田郡大井村東大戸2087番地(現在の岡山県笠岡市)に生まれる。1876年、祖父の名を継いで善兵衛と改名する。地元の学校に学ぶが1880年上京し、東京外国語学校(旧外語)および独逸学協会学校でドイツ学を学ぶ[4]。1883年、東京に欧亜学館を設立する。

1885年からは政府各省の依頼により、種々のドイツ語文書を翻訳する[5]。その後台湾総督府後藤新平児玉源太郎などの知遇を得、1898年、台湾日報社と台湾新報社を合併して台湾日々新報社を創立し、社長となる[6][7]

1909年、台湾日々新報社を辞職し、東京市赤坂に転居する[8]。1911年、満洲日日新聞社の社長に就任し、1916年まで務める[9]。1912年には東京府荏原郡大崎町(現在の東京都品川区)に新邸が完成し移転する。1917年からは、東京製紙株式会社、東北板紙株式会社などを創立し、経営にあたる。

1923年、目黒の新邸に転居する。1927年に病を得、1930年12月10日に没する。

没後

1940年、守屋善兵衛の遺族は目黒の宅地および居宅の一部を、紀元二千六百年記念として東京市目黒区に寄贈した。目黒区はこれを「守屋記念館」と名付け、公開した[10]

1952年、守屋記念館は目黒区立守屋図書館となった[11]。開館に際しては、守屋旧蔵資料も蔵書とされた。それにはドイツ語を中心とする洋書を含む500冊ほどの書籍や、守屋が経営にかかわった『台湾日日新報』および『満洲日日新聞』の原紙も含まれていた[12]

家族

弟の守屋秀也は満洲日日新聞の役員を務めた[1]。『満洲土産寫真帖[13]』『 南満洲寫真帖[14]』の著作がある。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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