守田有秋
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1882年(明治15年)岡山県児島郡宗津村(現在の岡山県南区)出身。本名は文治。[1] 東京専門学校中退。
両親は離別し、母親の手で育てられていたが、母親が事業を手伝っている縁で倉敷出身の資産家秋山家の世話になり、東京神田錦町の秋山定輔宅で暮らしながら小学校を卒業し、錦城中学4年の時、同家に下宿することになった山川均と出会う[2][3]。
東京専門学校在学中の1900年(明治33年)5月、山川均と創刊した雑誌『青年の福音』で皇太子の結婚を論じ、不敬罪で禁固刑の判決を受け入獄し、1904年(明治37年)出獄、東京二六新聞記者となる[4][5][6]。
母と妻子と共に大久保に居住し、社会主義とは距離を置いて極端な政治活動とは無縁の様子であったが、山川や幸徳秋水との関係は続いていたので、官憲の監視が付き、1910年(明治43年)10月に著書『自然と人』の中の一節が軍部批判とみなされ拘引される[7][8][9]。
1916年(大正5年)に渡欧。上海、南京、香港経由で船でロンドンに渡り、パリ、スイスと移動して、バーゼル、ジュネーブ、ティチーノで合わせて3年半ほど過ごす。在スイス中より「鉄血生」の変名で東京朝日新聞等に投稿していたが、帰国後大阪朝日、大正日日、二六新報の記者として活動。1919年(大正8年)に再び渡欧しドイツベルリンに1年ほど滞在。[1][10][11][12]
1921年(大正10年)帰国し、二六新報の編集主任や日独商会の取締役などを務める[1][13][14]。
1924年(大正13年)、二六新報を退社[1]。
1927年7月、書籍『世界各国著名文書集』(解放社)が発売禁止処分を受ける[15]。
1940年(昭和15年)、1941年(昭和16年)には、満州青島の山東毎日新聞の主筆となっており、また青島新報の主筆としても活動している[16][17][18]。