安倍吉平
From Wikipedia, the free encyclopedia
一条朝の正暦2年(991年)に陰陽博士であり、正暦4年(993年)頃に陰陽助、寛弘5年(1008年)頃に主計助などを経て、寛弘8年(1011年)頃以降は没するまで約15年に亘って主計頭を務めた。後一条朝初頭の長和5年(1016年)に従四位下に叙され、治安元年(1021年)の春日大社行幸の準備の功労によって、陰陽師としては異例の従四位上に至った。またこの間の寛仁3年(1019年)天文博士の職を兼務していた弟・吉昌が没するが、権天文博士・秦久邦は天文道の知識に乏しい上に伊予国に居住していたため、吉平が天文密奏宣旨を受けている。
吉平は父である晴明と同じく、藤原道長や藤原実資などに重用されている。
このように、吉平は安倍晴明の後継者であり、また天文道宗家ひいては陰陽道宗家として弟の吉昌、もう一方の陰陽道宗家である賀茂氏の賀茂光栄らと共に陰陽寮を取り仕切っている。
伝説
吉平にも父・晴明と同じように伝説が残っている。
- ある時、吉平が友人である医師の丹波雅忠と酒を飲んでいた。しかし、雅忠は話に夢中になって手の杯に注がれている酒を飲まずに話をしていた。と、吉平が急に「早くその杯の中の酒を飲んでしまわねば地揺れ(地震)が来ますよ」と告げた。すると、そのすぐ後に実際に地震が来たという(『古今著聞集』)。
- 藤原師実の大邸宅が一度も火災に遭った事がないのは、屋敷の寝殿の長押や棟木に吉平の手による呪符が貼られていたためという(『古事談』)[1]。
これらの話が示すように、吉平も父・晴明に劣らず有能な陰陽師であったことが窺える。また、占いの名手でもあり「指すの御子」とも呼ばれていた。