安土饗応
From Wikipedia, the free encyclopedia
経過
甲州征伐終了後の天正10年(1582年)5月15日、徳川家康は武田氏の旧領だった駿河国加増の礼のため、穴山梅雪を伴って織田信長の居城である安土城を訪れた[1][2]。
信長は家康を饗応すべく、明智光秀に接待役を命じていた[1][3]。すでに、同月12日に光秀はこの饗応のため、奈良の興福寺に調度品の貸出依頼を出しており、それらが安土城に運ばれるなど、念入りな準備がなされていた[4]。
家康への饗応は15日から17日にかけて行われ[5]、光秀は家康を手厚くもてなした[6]。信長の光秀に対する信頼は深かった[7]。
一方で、この饗応の際、事実かどうか定かではないものの、信長の気に入らない話題がでて、光秀がそれに口答えしたため、逆上した信長が光秀を足蹴にした、と『フロイス日本史』は伝えている[8][9][注釈 1]。信長が激昂した話題については、ルイス・フロイスが内容を記しておらず、不明である[11]。また、フロイスはこの話を直接見たわけではなく、「人々が語るところによれば」と伝聞であることを記している[11]。
5月17日、信長は備中高松城の包囲(備中高松城の戦い)を行っている羽柴秀吉の使者より、毛利輝元が自ら出陣し、吉川元春や小早川隆景など毛利氏の軍勢が接近してきたことを報告され、それに対する援軍の依頼を受けた[6][12][13]。報告を受けると、信長は自ら出陣して、輝元ら毛利氏を討ち、九州までも平定するという意向を秀吉に伝えた[13]。
一般にこのとき、信長は光秀に出陣を命じ、その接待役の任を解き、秀吉の援軍に向かわせたとされている[3][14]。しかし、これは史料の誤読によるもので、実際には当初の予定通り、光秀は家康の接待を続けていたと考えられる[14][注釈 2]。
同日、光秀は安土城から坂本城に戻り、26日に丹波の亀山城に入った[2]。その直後の6月2日、軍備を整えた光秀の軍勢は京都の本能寺に滞在していた信長を襲撃し、自害に追い込んだ(本能寺の変)。また、堺に宿泊していた家康は信長の横死を知ると、伊賀国を経由して三河国へ急遽帰還した(神君伊賀越え)ものの、別の経路で帰還を目指していた穴山梅雪は宇治田原で一揆に襲撃され死亡した。