本能寺
京都市中京区の寺院
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歴史
日隆は、伯父にあたる日存・日道と共に妙本寺の綱紀の粛清に務めたが志を遂げられず応永22年(1415年)に同寺を去ると、本應寺(本応寺)を創建した。それが当寺の始まりである[1][2]。寺地は北を五条坊門小路[注釈 1]、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった[注釈 2][3]。
日隆は、妙本寺4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐって本迹勝劣を主張し、妙本寺5世・月明と対立する。応永25年(1418年)に本応寺は月明により破却され[2]、日隆は河内国三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った[4][1]。
永享元年(1429年)に帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助を受けると、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本應寺を再建した[2]。永享5年(1433年)に檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に新たな土地の寄進を受け、寺地をそこに移すと、寺号を「本能寺」と改めた[1][2]。
その後、当寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利将軍家の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路[注釈 3]以北、櫛笥小路[注釈 4]以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた[3]。応仁の乱後、京都の復興に尽力した町衆は大半が法華宗の門徒であり、京都は法華宗の信仰が浸透して「題目の巷」と呼ばれ、当寺は繁栄を極めた。
しかし、戦国時代の天文5年(1536年)に発生した天文法華の乱にて延暦寺の僧兵により焼き討ちされてしまい、堂宇はことごとく焼失し[2]、当寺は一山まるごと堺の顕本寺に避難した[4]。
日承上人・本能寺の変
後に帰洛すると、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった。天文14年(1545年)に当寺は東・西洞院大路、西・ 油小路、北・六角小路、南・四条坊門小路[注釈 3]にわたる一町約120メートル四方(4町々)[5](旧本能小学校の北、元本能寺町付近)に寺地を得て伽藍が造立、中興がなされると[2]、子院も30余院を擁した[4]。
日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後歴代貫主が地方に布教し日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、当寺を頂点とする本門流教団が成立した。また、当寺は早くから種子島に布教していたため、鉄砲・火薬の入手にも関わり、戦国大名との関係も深かった。
織田信長は上洛中の宿所として妙覚寺を使用することが多く、当寺を宿所とすることは4回しかなく稀であった[2]。しかし、天正10年(1582年)6月2日は息子の織田信忠が妙覚寺に逗留しており、信長は当寺を宿所としていた。そこを明智光秀の率いる軍勢が包囲し、襲われるという本能寺の変が起き、その際の兵火で当寺の堂宇は焼失した[4][2]。信長は自ら火を放って自害したとされ[6]、『信長公記』でも当寺で信長が切腹したとしているが遺体は発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、同月16日に焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて信長への供養としている。7月4日、信孝は同寺に御触を出して信長の屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、また離散した住僧は戻るようにと命じている[7]。
現在の場所への移転とその後
天正19年(1591年)に豊臣秀吉の命により、現在の寺域である中京区下本能寺前町へと移転させられた。新たな伽藍の落成は天正20年(1592年)で[1][2]現在の御池通と京都市役所をも含む広大な敷地であった。
元和元年(1615年)に江戸幕府から朱印地40石を与えられている。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっていた[1]。
天明8年(1788年)の天明の大火で焼失するが、天保11年(1840年)に日恩上人によって再建された[2]。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより再び堂宇が焼失したが[1][2]、塔頭の龍雲院のみは焼失を免れている。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もある。
その後明治の廃仏毀釈などの影響もあり本堂の再建は遅れ、寺地も御池通の拡幅整備で削られるなどしたが、当寺の学問所である大亀谷檀林・隆閑寺(現・伏見区深草大亀谷にあった)の講堂を移築し、仮本堂とした。
1928年(昭和3年)に京都大学教授の天沼俊一が設計した本堂が完成し[2]、七つの塔頭全ての本堂も再建されて現在に至る。
当寺の住職は「貫首」と呼ばれており、現在は140世の桃井日英が福井県敦賀市の本勝寺より晋山し貫首を務めている。
当寺の山門は寺町専門店会商店街に面している。
旧地の発掘調査
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旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校があったが、1992年(平成4年)廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と高齢者福祉施設本能(京都市が設置し指定管理者が運営)が置かれている。2007年(平成19年)マンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、当時は「能」よりも広く用いられていた字形「
」がデザインされた丸瓦が、堀跡のヘドロの中から見つかっている[8][9]。
位置の変遷
| 建立 | 廃 | 位置 | ||
|---|---|---|---|---|
| 1415年 | 日隆が「本應寺」創建 | 1418年 | 妙本寺宗徒が破却 | 北緯35度0分2.6秒 東経135度45分15.7秒 |
| 1429年 | 山本宗句の援助で「本應寺」が移転・再建 | 千本極楽付近? (現・二条城の北西) | ||
| 1433年 | 如意王丸が願主となり、「本能寺」に改号・移転・再建 | 1536年 | 「天文法乱」で焼失 | 北緯35度0分24.3秒 東経135度44分53秒 |
| 1545年 | 日承(第12代貫首)が再建 | 1582年 | 「本能寺の変」で焼失 | 北緯35度0分21.4秒 東経135度45分13.5秒 |
| 1592年 | 豊臣秀吉の命で、日衍(第14代貫首)が移転・再建 | 1788年 | 「天明の大火」で焼失 | 北緯35度0分37秒 東経135度46分5.9秒 |
| 1840年 | 日恩(第77代貫首)が再建 | 1864年 | 「禁門の変」で焼失[13] | |
| 1928年 | 本堂(現在)を再建 | |||
逸話
境内
- 本堂(国登録有形文化財) - 1928年(昭和3年)に天沼俊一の設計により再建[2]。
- 十三重石塔
- 信長公御廟所 - 織田信長の廟所。信長の三男織田信孝によって建立された[2]。
- 御廟所拝殿(国登録有形文化財)
- 本能寺の変戦没者合祀墓 - 森蘭丸など変で討死した114名の信長の家臣を祀る。
- 徳川家重正室増子女王の墓 - 伏見宮邦永親王の第四王女。
- 菅中納言局五条庸子の墓 - 五条為庸の子で霊元天皇の掌侍。
- 島津義久継室円信院殿の墓 - 種子島時尭の次女。
- 日像聖人御墓
- 日承王の墓 - 伏見宮邦高親王の子。
- 浦上玉堂の墓
- 浦上春琴の墓
- ホテル本能寺[15]
- 本能寺文化会館 - 内部は寺務所と方丈になっている。
- 大宝殿宝物館
- 十三重石塔
- 表門(国登録有形文化財) - 1879年(明治12年)に妙心寺塔頭恭明院の門を移築したもの。
- 日蓮聖人像 - 1971年(昭和46年)造立。
塔頭
文化財
前後の札所
所在地
- 京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522