安田貞栄
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| 安田 貞栄 やすだ さだえ | |
|---|---|
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県議会初当選のインタビュー記事より | |
| 生年月日 | 1917年12月15日 |
| 出生地 |
鳥取県西伯郡中浜村 (現境港市麦垣町) |
| 没年月日 | 1989年11月20日(71歳没) |
| 出身校 |
鳥取県師範学校 (現鳥取大学) |
| 前職 |
誠道中学校教諭 鳥取県教育委員 |
| 所属政党 |
無所属[1]→ 日本社会党[1]→ 自民党[1] |
| 称号 |
正五位 勲三等瑞宝章 |
| 配偶者 | 妻・安田愛子 |
| 親族 |
実父・永井貞録(鳥取県議会議員) 娘・安田優子(鳥取県議会議員) |
| 当選回数 | 6回 |
| 在任期間 | 1955年4月 - 1978年8月 |
| 在任期間 | 1978年 - 1989年10月26日 |
安田 貞栄(やすだ さだえ、 1917年(大正6年)12月15日[2] - 1989年(平成元年)11月20日[2])は、日本の教育者、政治家。鳥取県議会議員、境港市長(第3代)。
生い立ち
鳥取県西伯郡中浜村出身。永井貞録の四男として生まれ、叔母に子供がなかったため安田家の養子となる[3]。実父貞録の「貞」と養父栄の「栄」をとって「貞栄」と命名された[4]。
学生時代~教育者として
学期末通信簿を持って帰って、成績が一番になったことを言うと「百姓の跡取りにならなくなるぞ」と叱られた[5]。部落の長老百太郎じいさんは特に説教の名人で「百姓の跡取りは百姓となるべきである。それこそ家を守る子供の務めだ。」と説いた[5]。米子中学校(現在の米子東高校)には行かせてもらえなかった[6]。安田は進学を希望したが、父は県議の肩書をもって米中に乗り込み、安田の願書と「三円九十銭也」の受験料を持ち帰っていた[7]。
1935年米子商蚕学校蚕業科(現在の米子南高校)を卒業し、一町九反の百姓となった[8]。毎日畑に行き、百姓らしい風貌になった[8]。
実家が経営する永井蚕種製造所の原蚕飼育の技師として長兄を助けろといわれ、奥日野に行くことになった[8]。
また弓浜組合製糸に勤めた[9]。弓浜組合製糸は、特約製糸のさく取と横暴に対して、養蚕農家の自衛手段として創設されたもので、組合員の区域は、渡、外江、余子、中浜で組合長は父だった[9]。安田の仕事は事務所で計算係だった[9]。
1938年鳥取県師範学校(後の鳥取大学教育学部)本科卒業[10]。歩兵第40連隊に入営し、短期現役兵として浜坂砂丘で鍛えられる[11]。陸軍伍長で除隊[12]。同年余子尋常高等小学校訓導[10]。1947年誠道中学校教諭[10]。1948年鳥取県教育委員[10]。
政治家として
1955年鳥取県議会議員に当選[10]。1978年境港市長に就任[10](~1989年)。1985年全国市長会副会長[10]。1989年10月26日体調不良のため市長を辞職[13]。同年11月20日、死去。
人物像
家族・親族
栄典
著書
- 安田貞栄 『ひとすじに』 昭和59年(1984年)