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田部長右衛門 (23代)

日本の実業家、政治家、芸術家 From Wikipedia, the free encyclopedia

23代 田部 長右衛門(たなべ ちょうえもん、1906年〈明治39年〉3月25日 - 1979年〈昭和54年〉9月15日)は、日本の実業家、政治家、芸術家。衆議院議員。島根県知事。位階は従三位。勲一等瑞宝章。

生年月日 1906年3月25日
出生地 日本の旗 日本 島根県飯石郡吉田村
(現・島根県雲南市)
出生名:田部朋之
没年月日 (1979-09-15) 1979年9月15日(73歳没)
概要 生年月日, 出生地 ...
23代 田部(たなべ) 長右衛門(ちょうえもん) 朋之(ともゆき)
生年月日 1906年3月25日
出生地 日本の旗 日本 島根県飯石郡吉田村
(現・島根県雲南市)
出生名:田部朋之
没年月日 (1979-09-15) 1979年9月15日(73歳没)
所属政党 日本進歩党、日本民主党、自由民主党
配偶者 田部 喬子
子女 長男:24代 田部長右衛門智久(実業家、山陰中央テレビジョン放送初代社長)
親族 父:22代 田部長右衛門茂秋(貴族院議員)
孫:25代 田部長右衛門真孝(田部社長、山陰中央テレビジョン放送社長)
孫:千宗屋(武者小路千家15代家元後嗣)
田部本家 第23代当主
在任期間 1947年 - 1979年9月15日
在任期間 1942年4月30日 - 1946年6月
当選回数 3回
在任期間 1959年4月23日 - 1971年4月29日
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奥出雲の山林大地主で「たたら御三家」の一つ、田部本家の第23代当主。名は朋之。号は松露亭。茶室「明々庵」の再建や「田部美術館」の設立など文化振興にも尽力した。竹下登元首相も彼が支援した政治家の一人である[1]。

略年譜

7月 - 衆議院大蔵委員[4]。
7月 - 島根県地方木材会社社長[4]。
6月 - 島根県飯石郡吉田村村長[4]。
8月 - ボーイスカウト島根連盟長[7]。
1月 - 自由民主党島根県支部連合会長[7]。
10月 - 島根県森林土木協会設立[7]、会長に就任[7]。
4月 - 島根県知事(1期)[7]。
1962年5月21日、ホワイトハウスにて
  • 1960年(昭和35年)
    • 3月 - 出雲大社第二次(庁の舎)再建奉賛会会長として焼失した庁の舎復興に乗り出す[7]。
  • 1962年(昭和37年)
    • 島根県開発公社設立、理事長に就任[8]。
  • 1963年(昭和38年)
    • 4月 - 島根県知事(2期)[9]。
  • 1964年(昭和39年)
    • 7月 - 島根県社会福祉事業団を設立[10]。
  • 1966年(昭和41年)
    • 11月 - 中国五県訪韓経済視察団団長として訪韓[10]。対韓貿易の促進を図る[10]。
  • 1967年(昭和42年)
    • 4月 - 島根県知事(3期)[11]。
    • 6月 - 「樹徳産業株式会社(現・株式会社JUTOKU)」設立[11]、取締役会長に就任[11]。
  • 1971年(昭和46年)
    • 4月 - 第22回「全国稙樹祭」を誘致[12]。
  • 1973年(昭和48年)
    • 1月 - 中国山地大規模林業圏開発推進協議会会長に就任[13]。
  • 1974年(昭和49年)
  • 1976年(昭和51年)
  • 1977年(昭和52年)
田部美術館
  • 1979年(昭和54年)
    • 6月 - 財団法人田部美術館設立[13]。
    • 9月 - 没[13]。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された[14]。戒名は誠実院朋願釈教歓居士。

人物像

幼少期は祖父の21代田部長右衛門長秋と同じ部屋で寝泊まりしていたため、大ダンナ教育は早朝から始められた。夜も明けぬ暗いうちに起こされ、武士の出で養子だった祖父・長秋から毎日昔の武士気質を聞かせられたという[15]。

若い頃、女優司葉子の父・庄司繁二郎に良いことも悪いこと(遊ぶこと)もしょっちゅう連れ歩いてもらって教わったこともあり司の姉妹揃って大いに可愛がった[16]。結婚式の際には田部が親代わりとして出席した[17]。

竹下登元首相を何かといえば「登、登」と呼んでわが子同様にかわいがった[18]。ある時竹下登の父勇造に「勇造ハン、登のことはわしに任せっさい[18]。お前さんには任せられんケン[18]」、「ゼネ(銭)はみんなわしが出す[18]」などと述べたことがあったという。

趣味は美術、陶芸、囲碁、柔道[3]。宗教は真宗[3]。

家族・親族

田部家

23代 田部長右衛門朋之(左)と
父・22代 田部長右衛門茂秋(右)
(1942年)
(島根県飯石郡吉田村(現・雲南市))
遠祖は紀州熊野庄(現・和歌山県)田辺族の別派であると記録されている。文治年中源頼朝が備前、備中、備後にそれぞれ地頭職を置いたときその中に備後の周藤通資という武士がいた。田部氏はその周藤家の家臣であったと記録されており、それから200年後、田部彦左衛門という人物が鉄山業を開いて定着したという。田部家はこの彦左衛門を初代としている。
江戸時代には準武士として待遇され政治的には郷村役人よりはるかに上位にあった。田部家の黄金時代には山林25000ヘクタールをもち田地が1000ヘクタール、小作1000戸、牛馬1000頭、島根県飯石郡はその大部分が田部家の領地であるという名実ともに日本一の山林地主であった[19]。
23代田部長右衛門朋之は作家の司馬遼太郎との対談の中で「私のほうは源平時代には紀州の田辺にいて、田辺湛増の一族だったようですが、室町のころにこの出雲の吉田にうつってきたのです。私で23代になります」、「出雲には私の家だけじゃなくこういう仕事の家が10指を越すほどありました。それらは普通、“タタラモン”とよばれていまして、決して上品なもんじゃない」と述べている[20]。
NHK特集『冬・奥出雲 山林大地主の村』 (1987年2月20日放送)で田部家の正月行事の模様が取り上げられた際に出演[21]。
  • 長女・容子 ‐ 実業家・元鳥取商工会議所会頭、日ノ丸総本社会長米原正博の妻
  • 二女・皓子 ‐ 秦郷次郎の妻[22](島根県、秦家養女)
  • 三女(千葉県、大多和家に嫁する)
  • 四女・和加子(京都府、武者小路千家宗匠千宗守 (14代)の妻、平成11年(1999)財団法人官休庵常任理事就任。和菓子、料理、着物に関する新聞、雑誌、書籍の執筆などで活躍中。)

宇山家

宇山家は宇多源氏佐々木氏の流れを汲むとされる(宇山氏系譜(武家家伝))

横山家

横山家の先祖は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む尼子方武将だったが主家滅亡後、郷に下り妻方となる一豪族と結ばれてその妻方の姓“横山”を名乗ったという伝承がある。安来山城屋元祖与一右衛門は安来与頭、宗旨庄屋、三男の六太郎は母里藩士・桑垣六左衛門の娘婿となり、尼子の筆頭家老宇山飛騨守の名跡を興し、“清左衛門”を名乗り母里宇山家の初代となる。安来町長、県会議員等を務めた8代目栄之助は若槻禮次郎元首相と親交があり、若槻より栄之助への親書(書簡)の一つは粂一郎二男英爾方にて保存されている[23]。

他家

田部邦之助(医師)
庄司廉(実業家)
宇山厚(外交官)
宇山真 (8代)等
  • その他の親戚
司葉子(女優)
相澤英之(官僚、政治家)
木佐徳之助(実業家、政治家)
絲原武太郎(実業家、政治家)
遠藤嘉右衛門(実業家、政治家)
米原章三(実業家、政治家)等

脚注

参考文献

関連項目

関連人物

外部リンク

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