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定長

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定長(ていちょう、1705年 - 1768年)は、清朝の官僚。別名は定常(ていじょう)。伊爾根覚羅氏出身で、満洲正黄旗に属した。官は湖広総督に至った。

生涯

定長は閩浙総督を務めたカルギシャンの長男で、監生出身であった。内閣中書、侍読を歴任し、1740年には一族に世襲されていた世管佐領職を継承した。その後、徐州知府、淮徐道、山東按察使陝西布政使安徽巡撫広西巡撫、山西巡撫、貴州巡撫を歴任した[1]

1757年5月、尚書劉統勲に従って雲南へ赴き、雲貴総督恒文による属官への恐喝事件を調査した。その結果、容疑が事実と認められたため、朝廷は定長を総督代理に任命した。翌月、山西巡撫へ転任したが、赴任前に父カルギシャンが死去したため、丁憂に服した。同年11月には副都統銜を授けられ、西路軍営の屯田事務を監督するよう命じられたが、派遣官員が成果を上げられなかったため罷免が議された。しかし、乾隆帝はそのまま留任させた。その後、兵部侍郎福建巡撫、湖広総督を歴任した。在任中、部下が関与した冤罪事件および兵役輸送の際の竹籠の不適切な使用により、二度にわたって罷免が議されたが、いずれも乾隆帝によって赦免された。1768年に病没したが、翌年、荊州副都統石亮が老齢かつ凡庸であるとして弾劾されると、乾隆帝は定長が私情により石亮を庇護していたと判断し、その恤典を取り消した[2]

長男のタイブは騎都尉の世職を継承し、乾清門侍衛を務めた。次男のタイフェインは山海関副都統を歴任した[3]。甥のオヨムブは貴州巡撫や葉爾羌辦事大臣などを歴任した。

脚注

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