定陵 (明)
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1956年から1958年にかけて発掘された。定陵の陵園は嘉靖帝の永陵に倣って築造され、地上建築として祾恩門・祾恩殿・明楼・宝城(墳丘)があった。そのうち明楼は、二重屋根・斗栱・額枋にいたるまで全て石材が用いられた。また宝城の女墻(ひめがき)と明楼の床面は全て美しい模様のある石で築かれていた[1]。
陵寝の地下宮殿、すなわち玄宮は、前殿・中殿・後殿および左右の配殿からなり、全体が石積みアーチ構造の建築であった。地下宮に入る最初の大門、すなわち前殿大門の外側もやはり石積みのアーチ構造であり、観音開きになった漢白玉製の石扉が門をふさいでいた。前殿は、奥行き20m、幅6m、高さ7.2mの規模があり、アーチ構造の天井に覆われた長方形の部屋であった[2]。
中殿も同様にアーチ構造であり、奥行き32m、幅と高さは前殿と同じく、南北両側の壁に設けられたアーチ門で左右の配殿へと通じていた。中殿の西端(最深部)には漢白玉製の玉座が3つ、「品」字形に並べられていた[3]。
後殿は南北30.1m、東西9.1mの規模で、中殿とあわせて「T」字形を作るように設計されていた。東西南北各壁は石板で垂直に築かれ、床面には花崗岩が水平に敷きつめられていた。室内の中央やや西寄りに花崗岩を表面に敷いた漢白玉製の台座があり、その上に3つの木棺が安置されていた。中央が万暦帝、北が孝端顕皇后、南が孝靖太后の棺であった。遺体はいずれも一棺一槨に納められていたが、すでに腐乱していた[4]。
左右の配殿は完全に同一構造で、東西26m、南北7.1m、高さ7.4m。ともに中殿に通じる石門が設けられていた。床面には石板が水平に敷きつめられ、殿内中央にレンガを表面に敷いた漢白玉製の台座が置かれていた。あわせて5殿7門で構成される玄宮の総面積は、1195平方mに達した[4]。
地下宮殿の副葬品は総計2000点を数え、大部分が後殿の台座の上と棺の中に置かれていた。葬送用のものと生活用品の2種類に大別することができる。葬送用のものとは、諡冊・諡宝・墓誌・木製あるいは錫製の明器などである。生活用品には、衣冠・金器・銀器・玉器・磁器などがある[5]。
脚注
参考文献
- 黄石林、朱乃誠『中国文化史ライブラリー 中国考古の重要発見』高木智見訳、日本エディタースクール出版部、2003年。ISBN 4-88888-330-0。