宝永三ツ宝丁銀
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略史
勘定奉行の荻原重秀の計らいにより永字銀の鋳造発行から1ヶ月も経ない宝永7年4月1日(1710年4月29日)に勘定組頭保木弥右衛門、勘定小宮山友右衛門の二人に連署させ、将軍の決裁を得ることなく銀座の内々の証文によって、翌日から銀品位を下げる吹替えが行われた[6][7]。このため、永字銀と同様に旧銀貨との交換手続きおよび通用に関する触書などが出されることは無かった[6][7]。
三ツ宝銀の鋳造量は少ないわけではないが、1年余りでさらに四ツ宝銀への吹替えが行われているため、古銀を交換回収し三ツ宝銀を普及させる間もなく流通も少なかったものと見られる。加えて良質の慶長銀の様に退蔵されることもほとんどなく、流通分も通用停止時にはほとんど正徳銀と引替えられたため[8]、現存数も永字丁銀と同様に極めて稀少である[9][10]。
相次ぐ悪銀の鋳造発行は銀相場に混乱を来し、商品の値段はそれぞれの銀の種別に異なった相場が立つ有様であった[11]。正徳4年8月2日(1714年9月10日)に良質の正徳銀が鋳造された当初、当時通用銀であった永字銀・三ツ宝銀・四ツ宝銀の3種は共に新銀・慶長銀に対し10割増、つまり2倍の重量を以て新銀・慶長銀と等価に通用するとする割合通用が規定された。しかし、銀品位の異なる3種を等価に通用させるのは無理であり、享保3年閏10月(1718年)に出された御触れ「新金銀を以当戌十一月より通用可仕覚」では銀品位に基く市場における割合通用を追認するものとなった[12][13]。
正徳銀が鋳造された後も暫く元禄・宝永各種の銀の混在流通の状態は続き、享保3年の「新金銀を以当戌十一月より通用可仕覚」により正徳銀が通用銀に変更された同年11月(1718年12月22日)までは永字銀・四ツ宝銀と共に通用銀としての地位を保持した。