宮本半蔵
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1880年8月5日(明治13年)福島県福島市吉井田に生まれた[2]。
元々は丹治半蔵と言う名前であったが、宮本家の婿養子となったことで宮本姓となった。
宮本半蔵は福島県で天神真楊流を学んでいた。1895年(明治28年)神田錦町に天神真楊流の道場「柳真館」を開いていた吉田千春を紹介されて15歳で上京した。
紹介されての上京だったが、既に吉田千春の書生は津田繁三郎が務めていた状況だったので、人形町の竹岡宇三郎が世話をして神田向柳原に天神真楊流道場を開いていた戸澤徳三郎の書生となった[注釈 1]。
宮本半蔵は戸澤徳三郎に就いて日々修行に励み、後に戸澤の娘と結婚したが故あって離婚した。宮本半蔵は最初に紹介された吉田千春の書生にはなれなかったが、後に吉田からも天神真楊流の指導を受けている。また、吉田の書生をしていた津田繁三郎とは公用の席上で型の演武を行う間柄となった。
宮本半蔵は25歳の時、神田末広町に道場を開いていた天神真楊流三代目の磯正智の門人で女流柔術家の宮本富之助(宮本ハナ)の娘と再婚して宮本家に入った[注釈 2]。
宮本富之助の道場「弘武館」では、宮本富之助の父の代より天神真楊流二代目磯又一郎の高弟であった井上敬太郎が道場を借りて骨接ぎを行っていた他、宮本富之助の後見人を務めていた。宮本半蔵は井上敬太郎からも天神真楊流を学んだ。
宮本富之助が亡くなった後、引き続き井上敬太郎を後見人として宮本半蔵が道場「弘武館」を継承した。
1905年(明治38年)神田末広町に宮本道場を開き弟子の指導と接骨の治療を始めた[3]。
宮本半蔵の道場は「弘道館」という名前であった[4]。
宮本半蔵は1909年(明治42年)に天神真楊流免許皆伝を受けた[5]。
天神真楊流における号は柳友斎で、宮本半蔵柳友斎源正親と名乗っていた。
| 段位 | 年月日 |
|---|---|
| 入門 | 1906年6月10日 (明治39年) |
| 初段 | 1910年10月23日 (明治43年) |
| 2段 | 1914年2月27日 (大正3年) |
| 3段 | 1919年1月12日 (大正8年) |
| 4段 | 1924年1月13日 (大正13年) |
| 5段 | 1932年1月10日 (昭和7年) |
| 6段 | 1939年6月15日 (昭和14年) |
| 7段 | 1949年5月10日 (昭和24年) |
嘉納治五郎によって1882年(明治15年)に講道館柔道が創始されてから柔術界で話題になり始めた頃、天神真楊流を学ぶものも注目し始めて宮本半蔵は相弟子に誘われて講道館へ交流稽古へ行った。嘉納治五郎は天神真楊流出身で親しい関係にあったのでお互いに技を磨き合おうという趣旨で平和的であった。宮本半蔵は講道館の鬼と言われた徳三宝と三本勝負を行ったが一本も取れず投げられた。宮本半蔵は講道館ルールで天神真楊流得意の当身技が使えなかったための惨敗で当身が使えれば勝利は間違いなかったと思ったが、この試合をきっかけとして1906年(明治39年)に講道館へ入門した[6]。
入門審査は師の井上敬太郎の元門人で講道館四天王の横山作次郎が務めていたが、宮本半蔵が横山作次郎の逆手を取ったところ「無段者は逆手をとってはならぬ。」と注意されたという[2]。その後、宮本半蔵は天神真楊流と並行して講道館柔道の修行も行い、1949年(昭和24年)に講道館柔道七段となった。また、宮本半蔵は大日本武徳会から柔道教士を許されている。
宮本半蔵は1966年(昭和41年)5月17日に亡くなった。
宮本半蔵が重い病で入院中、弟子の佐藤金兵衛がお見舞いに行った時、宮本半蔵は昔は生まれた子供が病弱だとなかなか戸籍には入れず自分は6~7歳で出生届を出されたので実際は90歳を超えているはずだと佐藤金兵衛に語ったという[7]。
宮本半蔵が伝えた天神真楊流は、相宮和三郎や飯田一郎に引き継がれた。相宮和三郎の系統は日本古武道振興会や日本古武道協会に所属して各地で演武するなどの活動しており現在も伝承されている。
また飯田一郎の系統は荒川区町屋の飯田道場で学ばれていたが現在の伝承状況は不明である。
日本柔道整復師会との関係
1905年(明治38年)に宮本道場と接骨院を開き、宮本の卓越した技術により名声が高まった。 1913年(大正2年)に整骨術の権威を高めて刷新を計るため、先輩同志との間に接骨術公認期成同盟会を組織して実行委員となって活動を行い、大正9年に内務省令によって「柔道整復術」という名称で公認された。宮本半蔵は日本柔道整復師会の副会長や東京柔道整復師会の理事などの要職を務めた。