宮沢澄也

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 1926年5月29日
没年月日 1991年
宮沢 澄也
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長野県松本市
生年月日 1926年5月29日
没年月日 1991年
身長
体重
170 cm
62 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1951年
初出場 1951年4月8日
最終出場 1957年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東映フライヤーズ (1959-1960,1967)

宮沢 澄也(みやざわ すみや、1926年5月29日 - 1991年?)は、長野県松本市岡田村出身[1]プロ野球選手。ポジションは投手

高等小学校を経て、松本商業に入学[2]。当初は野球部に入部予定だったが、戦局の悪化により野球部が廃部となったため、水泳部に所属[3]自由形の選手として、県大会にも出場した[4]1943年に予科練に志願入隊し、訓練中に終戦を迎えた[1]

終戦後は松本市役所に勤めていたが、友人の勧めで松本商業に復学すると、エースとして1947年春の選抜に出場。同大会の選手宣誓も務める[5][6]。大会は1回戦で京都一商北本重二に抑えられ敗退した[7]。同年夏の大会は、学制改革による年齢制限により出場できなかった[5][8]

高校卒業後、松商OBの宮坂達雄の誘いで明治大学に進学[2]。同期には樽井清一常見忠加藤一昭などがいる[2]。明大在学中の1950年、2リーグ分裂により選手層が薄くなった東急フライヤーズから明大OB・大下弘を通じて入団の誘いを受ける[2][9]。家計が苦しかったことから当初は入団の予定だったが[1]島岡吉郎などOBたちから反対され、東急への入団は大学卒業後とすることで合意した[2][9]東京六大学でのプレー期間は優勝に届かず2位5回に終わる。

1951年、契約通り東急フライヤーズに入団。1年目から1軍に定着し2勝を挙げると、その後も先発ローテに入り1952年1955年にはそれぞれ8勝を記録している。肩を痛めた1958年限りで現役を引退すると、翌1959年は二軍投手コーチ、1967年もコーチを務めたほかスカウト、スコアラーとしてチームが日拓・日本ハムと変わる中、球団に残る。1981年の定年退職後は、球団嘱託としてフロント入りした[10]

宮沢の松商時代の後輩である大塚正夫(日立造船野球部監督、1936.6.10-1991.7.31)の追悼集にて、宮沢の同級生が「大塚さんが亡くなられた前後、私たちの同期の宮沢澄也君も横浜で病没した。両者の冥福を祈る」と記述している[3]

詳細情報

脚注

関連項目

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