富士信章
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概要
社人との争論
信時の代より富士大宮司と公文・案主・別当間とで争論が断続的に続いており、それは信章の代でも同様であった。信章は公文・案主・別当より天和3年(1683年)の「幕府裁許状」を盾として訴えを起こされた。しかし逆に信章は公文・案主らの非法を訴え、寺社奉行所はこれらの訴えを認めた。この結果、享保10年(1725年)11月6日に黒田直邦・太田資晴・小出英貞らの連署にて、公文・案主側を非とする裁決が与えられた[4][5]。富士大宮司側に利のある裁決となったのである。
天和3年(1683年)の幕府裁許状により四家合議制が制定されたが、これにより公文・案主が力を強めていた。今回の裁決はこれらの状況から富士大宮司を擁護するものであったという指摘がある[6]。これにより公文・案主は大宮司の次官であることが明記され、また富士氏の家紋である棕櫚葉の紋なども公文・案主らが用いるべきではないということが明記された。