寒河江知広 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代生誕 不詳死没 明応3年7月28日(1494年10月5日)改名 法名:澄江寺殿高岳棟公 凡例寒河江 知広 寒河江知広・同夫人の墓(澄江寺)時代 戦国時代生誕 不詳死没 明応3年7月28日(1494年10月5日)改名 法名:澄江寺殿高岳棟公別名 太郎四朗墓所 澄江寺(山形県寒河江市)官位 出羽守幕府 室町幕府主君 足利義尚、足利義稙氏族 大江氏親広流寒河江氏父母 父:寒河江為広、母:不詳兄弟 知広、又四郎、男妻 不詳子 宗広、宗綱、広直、中野氏妻、竹姫テンプレートを表示 寒河江 知広(さがえ ともひろ、旧字体: 寒󠄁河江 知廣)は戦国時代の武将。寒河江氏13代。寒河江城主6代。 澄江寺(薬医門) 寒河江為広の長男として生まれ、文明18年(1486年)父の死により寒河江氏を継いだ。 長享3年(1489年)長州大寧寺に寺領を寄進し子院として澄江院を建立した。二親供養のためであったという。当時父の叔父にあたる全岩東純が大寧寺七世住職であった縁により行ったものである。同年大沼大行院の再建を行う[1]。 明応3年(1494年)7月28日に没し跡を寒河江宗広が継いだ。長州に建立された澄江院であったが、没後夫人が願い出て寒河江に移し瑞龍山澄江寺と名を変えたという[2]。 系譜 父: 寒河江為広 母: 不詳 妻: 不詳 宗広 - 長男。太郎四朗、左京大夫、左近大夫将監、因幡守。寒河江城主7代。法名法泉寺殿悦巌喜公大居士。 宗綱 - 2男。三郎四朗。永正2年(1505年)生害。法名正定院大峯。 広直 - 3男。小四郎、兵庫頭。宗広の子孝広が幼少の間執政を務めた。 女 - 中野氏(中野義建[3])に嫁いだ。 竹姫 - 早世。祐林寺で弔われた。 脚注 ↑ 大沼大行院系図『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.197 ↑ 『寒河江大江氏』p.141-147。 ↑ 胡偉権「山形最上氏と中野氏・寒河江大江氏―義光のゆかりを探る」 関連資料 寒河江市史編纂委員長 阿部酉喜夫『寒河江大江氏』、1988 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』、1994 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001 関連項目 大江氏 寒河江氏 寒河江城 表話編歴寒河江氏当主 親広 - 高元 - 広時 - 政広 - 元顕 - 元政 - 時茂 - 時氏 - 元時 - 元高 - 高重 - 為広 - 知広 - 宗広 - 孝広 - 広種 - 兼広 - 高基 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles