大江政広
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父大江広時が弘長2年(1262年)に亡くなると家督を継ぐが、寒河江荘には目代を送り自身は鎌倉にあったものとみられる。文永3年(1266年)大沼大行院(山形県朝日町)に大鐘一口を奉納する[1]。弘安の役に際しては同院で調伏を行っている[1]。文永9年(1272年)二月騒動で母方兄弟の小山氏が縁戚関係を結んでいた北条時輔が討たれる。建治元年(1275年)5月六条八幡新宮造営費用として15貫を納めた[2]
政広は建治3年(1277年)に亡くなり、跡を嫡男元顕が継いだ。嫡男元顕は弘安8年(1285年)霜月騒動の結果寒河江荘に下向したとみられているが、兄弟らは小沢、古川、西目を名乗り関東地方で御家人(もしくは御内人)として居住していたとみられる[3]。小沢広顕の子らは後の正慶2年(1333年)鎌倉幕府の滅亡と運命を共にしているが、広顕の孫は寒河江荘に下り後に大沼大行院を相続する[1][4]。