1901年(明治34年)、姶良郡栗野村(のちの栗野町、現在の湧水町栗野地域)[1]出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校を経て東京帝國大学(現・東京大学)を卒業。
内務官僚となり[2] 、厚生省部長、鹿児島県経済部長、同県副知事などを経て、1955年(昭和30年)から鹿児島県知事を3期12年務めた。在任中、戦後の混乱で厳しい財政の中で農業振興や交通・通信の整備に尽力し、大隅半島の広大なシラス台地である笠野原台地に大規模灌漑で農業用水を提供する土地改良事業をおこなった[2]。
また、1961年(昭和36年)6月15日、昭和天皇が各県知事(12の県知事)から地方事情の奏上を受ける場を設けた際には、「九州地方の特徴的な問題と奄美大島の近況」と題して鹿児島県の状況を説明[3]、島嶼部への配慮も欠かさなかった。
退任後は南日本放送会長を1996年(平成8年)まで務めた。
また、右目の視力がほとんどなく左耳も難聴という障害を抱えてていたこともあって福祉に関心が高く、鹿児島県社会福祉協議会の会長を24年間務めた。1998年(平成10年)2月11日、肺炎のため96歳で逝去。