小山田二郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
1914年(大正3年)、小山田廣志と妻まつの子として父の出張先である中華民国の満洲地域にある奉天省 安東県(現在の中華人民共和国遼寧省丹東市の東港市)で生まれる。翌年に両親から離れて祖父母の住む日本に引き取られ東京で暮らし始めるが[2]、2歳の時スタージ・ウェーバー症候群を発症。手術を受けるが完治する事は無く次第に下唇が腫れあがり顔中に痣が浮かぶようになった。1927年(昭和2年)、13歳で母と共に旧黒羽藩の城下町、栃木県大田原町(現・大田原市)にある母の実家へ転居したが、時と共に変形する顔にコンプレックスを抱き内に篭るようになった。
その後再び上京し、祖父の姉妹(辨助の娘)だった鈴子[3][4]が嫁いでいた東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科教授の小堀鞆音のもとで絵を学び、画家への道を志すが父の猛烈な反対を受ける。1934年(昭和9年)、20歳の時に帝国美術専門学校(現・武蔵野美術大学)に入学するも父の堅実な道をという理由で図案科での入学であった。諦めのつかなかった二郎は翌年に父親に黙って西洋画科へ転入し、すぐに父の知るところとなり仕送りを停止された結果中退を余儀なくされた。在学中には矢崎博信らと「L'anima(アニマ)」を結成している。太平洋戦争が勃発すると画材を集めることもままならず、絵描きとしても戦争を賛美することばかりが求められる風潮に絶望して一時筆を置くが、大日本印刷が画家を集めている事を知り1944年(昭和19年)に入社した。
終戦後は日本の変わりように矛盾を感じその思いをぶつけるかのような作品を描いている。1947年(昭和22年)、自由美術家協会(戦前からある前衛美術の有力団体[5])に入会。1952年(昭和27年)、38歳の時に瀧口修造の推薦を受けてタケミヤ画廊(神田駿河台下の洋画材店「竹見屋」の画廊で6年間の営業中に201の展覧会を行ない日本の現代美術に多大な貢献をした[6])で初めての個展を開催し、その後も毎年個展を行うようになった。1952年、共に画家活動をしていたチカエと結婚して高円寺に暮らし、一女にも恵まれ、魔理亞(まりあ)と名付けた。妻の小山田チカエ(1922-2012、本名・島貫キク、北海道出身)は、上京後広告会社に勤めながら絵を描き、自由美術家協会に属し、1950年代には左翼系画家を集めた「ニッポン展」(前衛美術会主催)にも参加、晩年は「美術・九条の会」にも参加していた[7][8][9][10][11]。
1959年(昭和34年)、協会の方針に疑問を感じて退会した。団体展参加に疑問を持ち、以降は画廊での個展を中心に作品を発表。
1971年(昭和46年)、57歳の時に「ラーメンを食べに行く」と言って府中市の自宅を出たまま突如失踪し、家族を置いて20代の愛人・小堀令子(小山田にとっての又従妹、鈴子と鞆音の間の孫、武蔵野美術大学卒)に奔った。令子とは娘・亜巣架をもうけ、生涯生活を共にした。失踪以後の活動は特定の画廊でのみ行い、世間との関わりが希薄化するにつれて世間から注目されることも少なくなった。1991年(平成3年)、進行性胃癌で死去。享年77。小山田の没後、令子も画家として活動を始め、東京都新宿区の「アトリエ絵夢」などで絵画教室講師も務める[12]。
2014年(平成26年)11月8日から2015年(平成27年)2月22日まで府中市美術館にて「生誕100年 小山田二郎」展開催[13]。2025年(令和7年)10月20日から同月29日までは「アトリエ絵夢」と同所にある「ギャラリー絵夢」で「小山田二郎×小堀令子 2人展」が開催された。初の二人展となった同展[14]では、小山田が死去の直前に描いた「舞踏」や小堀令子作「Black Hole」などが公開された[15]。
主な作品
- 宿命(1935年)戦災により消失
- 野蛮人(1954年)
- 食卓(1954年)
- 顔B(1955年)
- ピエタ(1955年)
- こわす者(1955年)愛知県美術館蔵
- 鳥女(1956年)
- アダムとイヴ(1956年)
- 愛(1956年)愛知県美術館蔵
- 鳥女(1962年)
- 漂着物(1972年)
- ロマンス(1978年)愛知県美術館蔵
- 夏の虫(A)(1978年)愛知県美術館蔵
- 舞踏(1991年)