小林謙五
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本籍滋賀県。中村覚陸軍大将の五男として東京府東京市四谷区鮫河橋南町(現・東京都新宿区南元町)に生まれ[1]、小林陣八郎の養子となる。東京府立一中を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(42期)を次席で卒業し、1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科で学ぶ。給油艦「神威」分隊長、「峯風」水雷長、呉鎮守府参謀などを歴任し、1926年(大正15年)11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業。
「蓼」艦長、アメリカ駐在、アメリカ大使館付武官補佐官、横須賀鎮守府参謀などの後、海軍省副官兼海相秘書官となり加藤友三郎大臣に仕えた。さらに侍従武官に就任。 1936年(昭和11年)3月までに神威で航空機遭難事故が発生すると、侍従武官であった小林が状況実視のために差し遣わされた[2]。 その後は給油艦「鶴見」艦長、アメリカ大使館付武官、「球磨」「高雄」「陸奥」の各艦長などを歴任。1941年(昭和16年)10月、海軍少将に進級し、第1艦隊参謀長として太平洋戦争を迎えた。
その後、呉鎮守府参謀長、連合艦隊参謀副長などを勤め、1944年(昭和19年)10月、海軍中将となった。旅順方面特別根拠地隊司令官として終戦を迎え、ソ連軍の捕虜となり、ハバロフスクの特別第四十五収容所に送られた[3]。シベリア抑留中の1948年(昭和23年)4月23日、ハバロフスクの南方70キロメートルほどの所にあるホール市の抑留者専用病院において戦病死した[4]。国内では公職追放の仮指定を受けた[5]。