亀山院政期の弘安5年(1282年)正五位下に叙せられ、弘安9年(1286年)主殿頭に任ぜられる。また、関白・鷹司兼忠の政所別当も務めた[1]。この頃、兼賀から統栄、冬良、統良に改名した。
永仁6年(1298年)父の小槻顕衡が没すると、統良が左大史に任ぜられ、引き続き壬生流で大夫史の地位を占めた。のち、記録所奉行や修理東大寺大仏長官を務める。正安元年(1299年)小槻伊綱が左大史に任ぜられて再び大夫史に壬生・大宮両流が並び立つが、正安2年(1300年)正月5日に統良は大夫史在任1年余りで出家し、7日に卒去。