小池貴志
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プロ入り前
高校時代から投手として注目されていたが[4]、3年生だった1988年6月に右肘を痛めたため、一時は野球を断念した[3]。しかし右肘が回復したことを受け、「もう一度、自分の力を試してみたい」との理由から、同年11月13日に中日ドラゴンズがナゴヤ球場で実施した新人テストを受験、金子歩とともに基礎体力などの1次試験に合格した[5]。同月中旬[6]、浜松秋季キャンプに合流し、そこで行われた二次試験に合格[5]、同年12月24日に練習生[注 1]として中日に入団することが発表された[5][12]。背番号は94[5][13][3]。
プロ入り後
1989年シーズンは練習生として過ごし、一軍(セントラル・リーグ)だけでなく二軍(ウエスタン・リーグ)でも登板機会はなかった[1]。同年オフ、背番号を67に変更した[1]。同年秋のアメリカ教育リーグでは金子とともに、入団後初の実戦登板を経験した[4]。
1990年シーズンは年俸360万円だった[1]。同シーズンも練習生扱いで在籍しており、一軍・二軍とも実戦登板機会はなかった[14]。一方で『週刊ベースボール』1990年版では、小池は同年に支配下選手登録されたと解説されているが[15]、同誌1991年版には、小池は1990年シーズンは練習生のため実戦登板がなかったという記述があり[16]、また1992年版には過去3年間にわたって練習生として過ごしたという旨の記述がある[17]。中日球団のファンブックによれば、小池は入団から2年間は打撃投手として下積みをしていた[18]。同年11月28日には年俸340万円(前年と同額)で契約更改した[19]。
1991年シーズンは当初、支配下選手登録されていたが、同年4月11日には近藤真一、中嶋治彦、辻本弘樹、富永章敬、加賀元、金子歩とともに支配下選手登録を外され「準支配下選手」[注 2]として公示されており[21]、同シーズンは準支配下選手扱いで在籍した扱いとなっている[22]。同年も一軍・二軍とも登板機会はなかった[23]。同年オフの黒潮リーグでは本人曰く「これが最後だと思ってガムシャラに投げた」といい、相手打者を次々に空振りさせる好投を披露した[24]。本人はプロ生活での一番の思い出として、この黒潮リーグの横浜大洋ホエールズ戦で先発して勝利投手になったことを挙げている[25]。その後、秋季キャンプでもブルペンで好投を見せていた[24]。
1992年は支配下選手として在籍し[22]、同シーズンの年俸は400万円だった[23]。同年も出場機会はなく[25][26]、12月2日付でNPBコミッショナーより自由契約選手として公示され[27][28]、同年限りで中日を退団[29]、現役を引退した[30][25]。
引退後
引退後は1993年から中日の球団職員(室内練習場担当)に就任した[31]。一方で打撃投手になると報じた新聞もある[32]。2006年まで中日球団広報部に所属していたが、2007年1月1日付で営業部に異動となった[33]。2019年4月時点では中日球団イベント推進部に所属し[34]、ファームの営業を担当していた[35]。またNPB12球団ジュニアトーナメントでは2023年・2024年に中日ドラゴンズジュニアのチーム代表を務めた[36][37][38]。