小田政光

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生誕 永正6年(1509年
別名 九郎
 
小田 政光
時代 戦国時代
生誕 永正6年(1509年
死没 永禄元年11月10日1558年12月19日
別名 九郎
戒名 近江院殿、天晶覚安大居士
官位 駿河守
主君 少弐氏龍造寺隆信
氏族 肥前小田氏
父母 父:小田元光、母:不明
正室:本告頼景娘、継室:龍造寺家門
鎮光[注 1]賢光[注 2]増光、女子(犬塚盛家室)、女子(犬塚鎮直室)、女子(龍造寺長信室)、女子(米倉太郎室)、徳島信安、高木信直
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小田 政光(おだ まさみつ)は、戦国時代武将少弐氏龍造寺氏の家臣。小田九郎、駿河守[1]。正室は本告頼景の娘、継室は龍造寺家門の娘[1]。近江院殿、天晶覚安大居士[1]

肥前小田氏常陸国南部を支配した小田氏の一族にあたり、常陸介・小田直光肥前国に下り、神埼郡蓮池城に拠り、少弐氏に仕えた。少弐資元周防国大内氏に敗れ自刃した際には、その子・冬尚が政光の祖父・小田資光を頼って落ち延びている。

略歴

永正6年(1509年)、小田元光の子[1]として誕生。

少弐氏が再興すると政光も仕える。

天文20年(1551年)、龍造寺隆信の後ろ盾だった大内義隆が、家臣・陶晴賢によって攻められ自刃する[2]。この機に、龍造寺胤栄の旧臣・土橋栄益は、胤栄の後継として龍造寺鑑兼を擁立して隆信に対抗し、政光もこの動きに加わった[2]。反隆信勢は佐賀城を包囲し、同年10月、隆信は城を明け渡し、筑後国に退いた[3]

天文22年(1553年)、反攻してきた隆信に敗れ、臣従した[4]。このとき、隆信の妻の妹を妻として迎えた[5]

永禄元年(1558年)11月、隆信は、少弐冬尚を討つため、政光らに攻撃を命じた(長者林合戦)[6]。同月10日、寄せ手の苦戦から、政光は隆信に援軍を要請したが、隆信は応じず、政光は討死した[7]

隆信は、政光の死を見届けると小田氏の居城蓮池小曲城を攻略したといわれる。

死後

政光の子らは家臣・深町理忠の働きにより落ち延び、のちに小田氏は大友氏の援助により再興したが、政光の子のうち鎮光賢光は龍造寺隆信によって非業の死を遂げている。肥前小田氏の血筋は隆信に仕えた増光の子孫が残り、のち鍋島氏に仕え存続した。

脚注

参考文献

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