小田政光
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略歴
少弐氏が再興すると政光も仕える。
天文20年(1551年)、龍造寺隆信の後ろ盾だった大内義隆が、家臣・陶晴賢によって攻められ自刃する[2]。この機に、龍造寺胤栄の旧臣・土橋栄益は、胤栄の後継として龍造寺鑑兼を擁立して隆信に対抗し、政光もこの動きに加わった[2]。反隆信勢は佐賀城を包囲し、同年10月、隆信は城を明け渡し、筑後国に退いた[3]。
天文22年(1553年)、反攻してきた隆信に敗れ、臣従した[4]。このとき、隆信の妻の妹を妻として迎えた[5]。
永禄元年(1558年)11月、隆信は、少弐冬尚を討つため、政光らに攻撃を命じた(長者林合戦)[6]。同月10日、寄せ手の苦戦から、政光は隆信に援軍を要請したが、隆信は応じず、政光は討死した[7]。
隆信は、政光の死を見届けると小田氏の居城蓮池小曲城を攻略したといわれる。
死後
政光の子らは家臣・深町理忠の働きにより落ち延び、のちに小田氏は大友氏の援助により再興したが、政光の子のうち鎮光、賢光は龍造寺隆信によって非業の死を遂げている。肥前小田氏の血筋は隆信に仕えた増光の子孫が残り、のち鍋島氏に仕え存続した。