天文5年(1536年)、大内義隆の命を受けた陶興房の攻撃を受け、父・少弐資元が自害した際[5]、冬尚は蓮池城の小田資光(政光の祖父)の下に落ち延びた[6]。
その後、冬尚は龍造寺家兼ら家臣団の助けを受けて天文9年(1540年)に少弐氏の再興を果たした。しかし天文14年(1545年)、家臣の馬場頼周が家兼を妬んでその一族の大半を暗殺するという事件を起こすと、頼周は天文15年(1546年)に家兼の反攻にあって殺され、冬尚も家兼と対立することとなった。
その後、冬尚は家兼の曾孫・龍造寺隆信と争い、永禄2年(1559年)に隆信や千葉胤連に攻められ勢福寺城で自害し[7]、少弐氏は滅亡した。
のちに弟・政興が馬場鑑周(あきちか、頼周の孫)らと共に少弐氏の復活を狙って旗揚げするも、果たせなかった。