少弐冬尚

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生誕 永正7年(1510年)または享禄2年(1529年
改名 松法師丸[1]→興経[1]→時尚[1]→冬尚
 
少弐 冬尚
時代 戦国時代
生誕 永正7年(1510年)または享禄2年(1529年
死没 永禄2年1月11日1559年2月18日
改名 松法師丸[1]→興経[1]→時尚[1]→冬尚
別名 時尚[2]
戒名 心了本海[3]
墓所 真正寺(佐賀県神埼市神埼町城原)[4]
官位 大宰少弐
氏族 少弐氏
父母 父:少弐資元
兄弟 冬尚千葉胤頼政興元盛松浦鎮
冬敬横岳資誠
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少弐 冬尚(しょうに ふゆひさ)は、戦国時代大名少弐氏17代(最後の)当主。名乗りは祖先の少弐頼尚冬資父子に由来するものである。

天文5年(1536年)、大内義隆の命を受けた陶興房の攻撃を受け、父・少弐資元が自害した際[5]、冬尚は蓮池城小田資光政光の祖父)の下に落ち延びた[6]

その後、冬尚は龍造寺家兼ら家臣団の助けを受けて天文9年(1540年)に少弐氏の再興を果たした。しかし天文14年(1545年)、家臣の馬場頼周が家兼を妬んでその一族の大半を暗殺するという事件を起こすと、頼周は天文15年(1546年)に家兼の反攻にあって殺され、冬尚も家兼と対立することとなった。

その後、冬尚は家兼の曾孫・龍造寺隆信と争い、永禄2年(1559年)に隆信や千葉胤連に攻められ勢福寺城で自害し[7]、少弐氏は滅亡した。

のちに弟・政興馬場鑑周(あきちか、頼周の孫)らと共に少弐氏の復活を狙って旗揚げするも、果たせなかった。

生年の異説

脚注

出典

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