竹田恒徳
日本の軍人、皇族。竹田宮2代(皇籍離脱)。竹田宮恒久王の長男
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竹田 恒徳(たけだ つねよし、1909年〈明治42年〉3月4日 - 1992年〈平成4年〉5月11日)、または竹田宮恒徳王(たけだのみや つねよしおう)は、日本の旧皇族(竹田宮第2代当主)、陸軍軍人。竹田宮恒久王の第1男子。母は常宮昌子内親王。最終階級は陸軍中佐。勲等は大勲位。1947年(昭和22年)10月に皇籍離脱した。
皇室との血筋に関しては、最も遠いのは男系で17世祖離れている北朝第三代崇光天皇。女系では8世祖にあたる霊元天皇、最も近いのは祖父にあたる明治天皇。
昭和天皇は従兄でありその皇后である香淳皇后は再従姉にあたることから、第125代天皇明仁は従甥及び再従甥、第126代天皇徳仁は従姪孫及び再従姪孫である。
生涯
明治天皇の初の外孫として誕生する。両親の愛情を一身に受け、また従弟で隣に住む北白川宮永久王とは兄弟のように育つ。永久王は早世したため、恒徳王は後年まで、「永久王が生きていたら…」と語っていたと言う[1]。
陸軍軍人
父・恒久王が帝国陸軍の騎兵将校であったことから陸軍軍人を志し、学習院から陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科へと進み、1930年(昭和5年)7月に陸軍士官学校本科(42期、兵科・騎兵)を卒業。朝鮮公族の李鍵公とは同期生であり、兵科と最終階級も同じである。恒徳王は他の皇族たる陸軍軍人(朝香宮鳩彦王・賀陽宮恒憲王・閑院宮春仁王・朝香宮孚彦王・北白川宮永久王等)がそうであったように、軍服は大正末・昭和期当時の陸軍青年将校の間で大流行していた、瀟洒なものを仕立て着用していた。 恒徳王は馬術を得意とし、陸軍騎兵学校教官を務めた他、1938年(昭和13年)5月30日には陸軍大学校(50期)を卒業。前年に勃発していた日中戦争(支那事変)の前線行きを志願したが実現せず、満州ハイラルの騎兵第14連隊第3中隊長を拝命。 同年6月26日、参内して昭和天皇に暇乞いを行う[2]。その後、14Kが戦地へ動員される際、皇族である恒徳王を内地へ戻そうとする動きがあったが、王は陸軍省人事局長に電話で直談判した末、ようやく念願の戦地行きが叶った。この時初めて戦場に立ったが、「自分に向かって弾が飛んでくるのは気持ちの良いものではなかった」と語っている。
1940年(昭和15年)、皇紀二千六百年を祝う大観艦式には、昭和天皇に供奉してお召し艦「比叡」に乗艦した。行事終了後、横浜で下艦した際、長男誕生の報告を受けている。
太平洋戦争(大東亜戦争)には大本営参謀として、フィリピン攻略戦、ガダルカナルの戦いに参画する。参謀としての秘匿名は「宮田参謀」であった。しばしば前線視察を希望し、危険が多いラバウル視察を強行するなど、周囲をはらはらさせていた。1943年(昭和18年)3月、陸軍中佐に昇進、8月に関東軍731部隊の担当参謀となった[3][信頼性要検証]。新京では満州国皇帝溥儀と交流を持ち、親しくしていたという。1945年(昭和20年)7月、第1総軍参謀として内地に戻った。後任として入れ替わりに関東軍参謀となったのが瀬島龍三陸軍中佐である。
昭和20年8月9日のソ連とモンゴル人民共和国の参戦(通称・日ソ戦争)に際して「私の肖像画」107頁には自ら「そうした東京の状況に比べると、満州は比較的平穏だったので、家族は満州に残して、私は単身東京へ赴任していた。ところが、突然、八月九日にソ連が日本に対して参戦をしてきた。そこで慌てて家族を呼び戻した。あまり急だったので、妻たちはまったく着の身着のままで、終戦の五日前に帰って来た」「ただ生後丁度一年の赤ん坊連れの家族が猛烈な空襲下の東京で生活することが心配で、特にお願いして前橋付近の陸軍飛行場に降ろしてもらい、そこから直接軽井沢の別荘に行かせた」と書いている[4]。愛新覚羅浩「「流転の王妃」の昭和史」(中公文庫版122~124頁)には「八月十日未明のことでした」の後にボーイから「宮田さまからお電話でございます」とあり、「わたくし、いますぐ飛行機で東京に出発いたしますが、なんなら一緒にいかがですか。お出来にならないならば、貴重品だけでもお預かりして参りましょう」とあるが「宮田は竹田宮の変名で、当時は宮妃だけが新京に残っておいででした」(123頁)と記憶違いがある。
1945年(昭和20年)8月12日、天皇から他の皇族とともに御文庫附属庫に招かれ、同月10日の御前会議でポツダム宣言受諾の決心を下したことを聞く[5]。同年8月16日、天皇から鳩彦王、春仁王とともに御文庫に招かれ、ポツダム宣言受諾の聖旨を各関係部隊の指揮官に伝えるよう命じられる。翌日、関東軍総司令部と第3方面軍司令部、第17方面軍 及び朝鮮軍管区司令部[6]へ向けて出発し、新京[7]、奉天、京城を訪問した後に帰国。同年8月20日に、支那派遣軍を訪れていた鳩彦王とともに復命した[8]。
終戦後は偕行社会長などを務めた。
終戦後
1945年(昭和20年)11月29日、昭和天皇から歴代山陵への代拝を命じられる。目的は、歴代各陵に対し戦争の終熄へのお詫びと日本の復興に対する御加護を祈ることであり、同年12月1日に東京を出発して崇徳天皇陵、淳仁天皇陵に参向。同年12月5日に帰京して、翌12月6日に昭和天皇に復命した[9]。
1947年(昭和22年)10月14日、皇籍離脱。以前から皇族が多いことに問題を感じていたため、あまり抵抗は無かったと言う。さらに「“竹田”と言う名は他の宮家と違い、ポピュラーで気に入っている」とも語った。皇籍離脱に伴い一時金が与えられ、この金を目当てに近寄るものが後を絶たなかったが、全てを丁重に断った。皇籍離脱直後に公職追放となる[10]。1950年(昭和25年)に日本スケート連盟の会長就任を要請されたのをきっかけに、スポーツ界での活動を開始する。 同年には、モスクワで開催された世界スピードスケート選手権大会に会長として出席した[11]。また、1956年には、コルチナ・ダンペッツオオリンピックの日本選手団団長としてイタリアへ渡った[12]。 もともとスポーツ、特に馬術を好み騎兵将校であったことからオリンピック出場を目指していた程であった。また、1936年(昭和11年)の第11回ベルリンオリンピックで団体6位入賞の結果をもたらした「ファーレーズ号」の馬主でもあった。
戦後は繊維会社の経営に携わる傍ら、日本体育協会専務理事、日本オリンピック委員会委員長、国際オリンピック委員会理事、同名誉委員、日本馬術連盟会長、日本スケート連盟会長、全国ラジオ体操協会会長など、複数のスポーツ関連団体の役職を歴任し、同時に15団体の役員を兼ねている時もあったと言う。また、1964年東京・1972年札幌両オリンピックの招致に尽力し、体育の日制定にも携わった。
なお、軽井沢に別邸(1927年建設)があった関係で、夏の間に正田美智子と知り合っていた竹田は、旧皇族のなかでも皇室に入った美智子妃に対して親しみと優しさをもって接していたという[13]。
戦前まで暮らした竹田宮邸は、西武グループに売却されて高輪プリンスホテル(現・グランドプリンスホテル高輪)となり、邸宅本体は同ホテル貴賓館として活用されている。
子女
ギャラリー
系図
| 北朝3代天皇 崇光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 伏見宮 栄仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 伏見宮 貞成親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 102代天皇 後花園天皇 | 伏見宮 貞常親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 〔現皇室〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 伏見宮 邦家親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 北白川宮 能久親王 | 〔伏見宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 初代竹田宮 恒久王 | 〔北白川宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 2代竹田宮 恒徳王 | 禮子女王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 3恒正王 | 素子女王 | 紀子女王 | 恒治王 | 恆和 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 浩子[注釈 1] | 恒貴[注釈 2] | 恒昭[注釈 3] | 恒智[注釈 4] | 恒泰 | 恒俊[注釈 5] | 女子[注釈 6] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 男子[注釈 7] | 男子[注釈 8] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 明治天皇 (1852-1912) 在位 1867-1912 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 大正天皇 (1879-1926) 在位 1912-1926 | 竹田宮恒久王 (1882-1919) | 昌子内親王 (1888-1940) | 北白川宮成久王 (1887-1923) | 房子内親王 (1890-1974) | 朝香宮鳩彦王 (1887-1981) | 允子内親王 (1891-1933) | 東久邇宮稔彦王 (1887-1990) | 聡子内親王 (1896-1978) | 昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | 竹田恒徳 (1909-1992) | 永久王 (1910-1940) | 朝香孚彦 (1912-1994) | 盛厚王 (1916-1969) | 成子内親王 (1925-1961) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 上皇 (明仁) (1933-) 在位 1989-2019 | 竹田恒正 (1940-) | 北白川道久 (1937-2018) | 朝香誠彦 (1943-) | 東久邇信彦 (1945-2019) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 今上天皇 (徳仁) (1960-) 在位 2019- | 竹田家 | (男系断絶) | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年表
- 1909年(明治42年)3月4日 - 誕生
- 1919年(大正8年)8月23日 - 竹田宮継承
- 1929年(昭和4年)3月3日 - 貴族院議員(皇族議員)[19]
- 1930年(昭和5年)7月 - 陸軍士官学校卒業(42期)
- 1938年(昭和13年) - 陸軍大学校卒業(50期)
- 1940年(昭和15年)8月 - 陸軍少佐
- 1940年(昭和15年)11月3日 - 大勲位菊花大綬章受章
- 1940年(昭和15年)12月 - 参謀本部第1部作戦課員
- 1943年(昭和18年)3月 - 任陸軍中佐
- 1943年(昭和18年)8月 - 関東軍作戦参謀
- 1945年(昭和20年)7月 - 第1総軍防衛主任参謀
- 1946年(昭和21年)5月23日 - 免貴族院議員[20]
- 1947年(昭和22年)10月14日 - 皇籍離脱し竹田恒徳
- 1947年(昭和22年)10月15日 - 公職追放
- 1957年(昭和32年) - 社団法人日本動物福祉協会名誉会長
- 1962年(昭和37年)10月15日 - 日本オリンピック委員長
- 1965年(昭和40年)1月5日 - 賜・銀杯一組(菊紋)
- 1967年(昭和42年)5月8日 - 国際オリンピック委員会委員就任
- 1969年(昭和44年) - 日本ビリヤード協会会長
- 1976年(昭和51年) - 国際ロータリー理事
- 1981年(昭和56年)1月1日 - 偕行社会長
- 1982年(昭和57年)9月 - 特攻隊慰霊顕彰会会長(後の財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会)
- 1989年(平成元年)12月31日 - 偕行社会長を退任する
- 1990年(平成2年) - 日本ビリヤード協会会長を退任し坪内嘉雄に交代する。総裁には寬仁親王が就任。
- 1992年(平成4年)5月11日 - 薨去
栄典
著書
- 『菊と星と五輪』 ベースボールマガジン社、1977年4月、ISBN 4-583-01757-X
- 『私の肖像画 皇族からスポーツ大使へ』 恒文社、1985年7月、ISBN 4-7704-0613-4
- 『雲の上、下思い出話 元皇族の歩んだ明治・大正・昭和』 東京新聞出版局、1987年10月、ISBN 4-8083-0254-3
- 『馬よもやま話』 ベースボール・マガジン社、1989年6月、ISBN 4-583-02765-6