小西甚一
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来歴・人物
三重県宇治山田市船江町(現・三重県伊勢市船江)に生まれる。生家は魚屋だった。三重県立宇治山田中学校、東京高等師範学校を経て、1936年(昭和11年)、東京文理科大学国語国文科を卒業。1940年(昭和15年)、同研究科修了。1954年(昭和29年)、文学博士の学位を取得(東京文理科大学)。論文の題は「文鏡秘府論考」[1]。
東京教育大学文学部教授、筑波大学文芸・言語学系教授、スタンフォード大学客員教授、ハワイ大学高等研究員、アメリカ議会図書館常任学術審議員、プリンストン大学高等研究員等を歴任し、日本文学研究の国際化に貢献した。
専攻は日本中世文学、比較文学で、飯尾宗祇の連歌や世阿弥の能等。また、俳句研究にも造詣があり、松尾芭蕉に関するものも多い。
全5巻の大著『日本文藝史』は第1巻刊行と同時に英訳版がプリンストン大学出版会から出ている(第3巻まで。第4、5巻は未刊行)。1992年(平成4年)、同書により大佛次郎賞を受賞。
その他の著書に『梁塵秘抄考』、『文鏡秘府論考』、『能楽論研究』、『俳句の世界』等がある。
また、スタンフォード大学滞在中に、当時のアメリカ最新の文芸批評の方法論を学び、日本で従来一般的であった、あるイデオロギー(カトリシズムやマルクス主義)と合う程度いかんで作品を評価する截断批評や、たんに主観的な印象批評に替わるものとして、表現そのものに拠り所を求めようとする批評を分析批評と名付けて紹介、日本の国語教育や国文学研究に影響を与えた。
エピソード
- 学者として壮年期に日本学士院賞を受賞したが、同時に大学受験指導普及に熱心で、大学受験ラジオ講座の講師を務めたほか、自ら著した学習参考書『古文研究法』(洛陽社)は単なる参考書を超えた国文学入門書としてファンが多く、ロングセラーとなっている。自ら編纂した代表的な学習参考書は、他に『国文法ちかみち』(洛陽社、重版中)、『古文の読解』(旺文社、ちくま学芸文庫として復刊)等があり、コンパクトな古語辞典の先駆けとなる『基本古語辞典』(大修館書店、のち『学習基本古語辞典』に改題)がある。
| 「 | これからの日本を背負ってゆく若人たちが、貴重な青春を割いて読む本は、たいへん重要なのである。学者が学習書を著すことは、学位論文を書くのと同等の重みで考えられなくてはいけない。りっぱな学者がどしどし良い学習書を著してくれることは、これからの日本のため、非常に望ましい。 | 」 |
—『古文研究法』「はしがき」 | ||
- 東京高等師範学校の先輩にあたる佐伯梅友とは東京教育大学で研究室が同じで、佐伯とのエピソードや佐伯文法を自らの学習参考書で頻繁に紹介している。
- 趣味は、能(観世流)、狂言(和泉流)、俳句(『寒雷』同人)、将棋4段で、能狂言は自ら舞台にも立った。
- 国文学者としては珍しく語学を得意とし、英語、中国語に堪能で、独語、仏語は読み書きができ、朝鮮語を読むことができた[2]。アメリカ合衆国の日本文学研究者、アール・マイナー、ロバート・ブラウアーと共著で、『古今和歌集』の配列が、恋の始まりから終りまでを示しているという論文を英文で発表したこともある。
- 東京教育大学在勤時には学園紛争に忙殺され、同大の筑波移転問題に際しては、文学部で数少ない賛成派で、移転後に筑波大学で要職を務めたこともあり、主義論説面では保守派と見なされていた。
- 三島由紀夫とは自決の数年前に『世阿弥と謡曲』について、ドナルド・キーンと3人で座談しており(のち新旧の『三島由紀夫全集』に所収)、『日本文藝史』第5巻の最後は三島由紀夫の礼讃で締めている。なおキーンとは終生の友人であった。
