小野成時 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 鎌倉時代前期生誕 不明死没 承久3年6月14日(1221年7月12日)[2]別名 野次郎[3] 凡例小野 成時[注釈 1]時代 鎌倉時代前期生誕 不明死没 承久3年6月14日(1221年7月12日)[2]別名 野次郎[3]官位 左衛門尉、左兵衛尉[3]幕府 鎌倉幕府 御家人主君 源頼家、後鳥羽上皇氏族 小野氏流横山氏族成田氏父母 父:小野義成[1]兄弟 義基、成時[1]テンプレートを表示 小野 成時(おの の なりとき)[注釈 1]は、鎌倉時代前期の武士。 武蔵七党横山党の一族成田氏の小野義成の子[1]。正治2年(1200年)源頼家の鶴岡八幡宮参拝に随兵の一人として従っている[4]。 成時は父とともに在京武士としての性格が強く、また父が三左衛門事件に関わったように中御門流一条家と近い関係にあったらしく、元久2年(1205年)の左衛門尉に任官も一条能保の推薦があったものと考えられている[5][6]。建永元年(1206年)延暦寺衆徒が近江国に乱入した際、検非違使として在京していた父に従ってその追捕にあたり、特に八島時清を追撃した際には父とともに時清と斬り合い、遂にこれを討ち取った[2][7]。建永2年(1207年)には院で行われた笠懸で射手を務めている[2]。 承元2年(1208年)父が没したため鎌倉に下向し、院の承認を背景にその遺跡継承の承認を受けている[2][8]。建暦3年(1214年)鎌倉で和田合戦があると、当時九州にあった成時は三浦氏の縁者である在京御家人の大友能直を討とうと上洛したが、院により制止されている[2][9]。同年、延暦寺衆徒が抗争相手の清水寺を焼き討ちにしようとした際、西面武士だった成時は後鳥羽上皇の命で停戦に応じない衆徒と戦った。比叡山はこの事に猛抗議を加えたため、朝廷は西面武士たちを解官することとなり、成時も身柄を検非違使に引き渡された[10]。 承久3年(1221年)承久の乱では官軍として出陣するが、宇治川の戦いで幕府軍に大敗する。主だった将兵は逃走し、成時は藤原朝俊・八田知尚・佐々木高重らとともに宇治川に留まって戦ったが、幕府軍の宮城小四郎によって討ち取られた[注釈 2][2][12]。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 1 2 一部の諸系図は成時の実名を時成、盛時とする[1]。 ↑ 『承久記』によれば、落ち延びようとしたところ組み打ちになり、一度は優勢に立ったものの幕府軍後続に耳を射られ、その隙に討たれたという[11]。 出典 1 2 3 4 『大日本史料』4-10, pp. 54–55. 1 2 3 4 5 6 塩原 2012, pp. 315–316. 1 2 『大日本史料』4-10, p. 54. ↑ 『大日本史料』4-6, pp. 54–55. ↑ 塩原 2012, p. 316. ↑ 『大日本史料』4-8, pp. 679–681. ↑ 『大日本史料』4-9, pp. 239–240. ↑ 『大日本史料』4-10, pp. 53–54. ↑ 『大日本史料』4-12, pp. 562–563. ↑ 『大日本史料』4-12, pp. 650–654. ↑ 『大日本史料』4-16, pp. 246–247. ↑ 『大日本史料』4-16, pp. 203–208. 参考文献 塩原浩 著「三左衛門事件と一条家」、立命館大学人文学会 編『立命館文學』 624号、立命館大学人文学会、2012年。 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 6巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 978-4-13-090156-7。 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 8巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 978-4-13-090158-1。 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 9巻、東京大学出版会、1971年。ISBN 978-4-13-090159-8。 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 10巻、東京大学出版会、1971年。ISBN 978-4-13-090160-4。 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 12巻、東京大学出版会、1971年。ISBN 978-4-13-090162-8。 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 16巻、東京大学出版会、1972年。ISBN 978-4-13-090166-6。 Related Articles